「若さ」という武器の真意について
「若さ」は武器なんだから、何でも挑戦してみなさい。
社会人1年目は、失敗が許されるから、何でも自ら手を挙げて動きなさい。
20代は、まだキャリアにおいて、色々挑戦できるから良いよね。
上記のような台詞は30歳未満の人であれば、必ず一度は大人から言われた事ないでしょうか(以下、「若者」を30歳未満の人、「大人」を30歳以上の人と定義します)。主体的に動いて欲しいという期待も込めての台詞だと思いますが、正直、私は鬱陶しいと思っていました(笑)
さて、毎年冬に開催される全国高校生マイプロジェクトアワード(下記ご参照)といって、高校生の探究学習を促すプログラムがあるのですが、先日その夏イベントにボランティアとして参加しました。計80組ほどの発表グループがあり、14班に分け、私は一つの班のファシリテーターとして、発表者(高校生)への知見共有・思考を深める為の問題提起の役割を担いました。
今回のボランティアを通じて、「若さ」という武器の真意を理解した気がします。
発表内容の完成度は、グループによってピンキリですが、完成度は横に置いておき、若者が主体的に何かに問いを立て、その課題解決の為に挑戦しようとしていること自体に価値があるのだと感じました。高校生ですので、年齢は私より一回り下です。まだ社会経験もないので、リサーチ能力・プレゼン能力・言語化能力・語彙力などは、まだまだこれから発達する余地がありますが、それらのソフトスキルの巧拙を超越するエネルギーを感じました。
社会人の能力として、ハードスキル(体系的知識、理論、手法など)・ソフトスキル(コミュニケーション能力全般)としばしば分類されますが、所詮はスキルです。当然これらのスキルは、ないよりあった方が良いですが、最悪スキルが全くない状態でも、体と脳みそがあれば、何かに挑戦しようと行動する事は可能です。高校生たちもスキルが未熟な状態で、それぞれの課題解決に向けて挑戦しようとしています。つまりスキルがなくても、何かに挑戦しようと行動する事は、スキルを取得する事以上に尊いことであり、人間を引き付けるエネルギーが宿っているのです。スキルが不足する場合は、先輩や上司に協力を仰ぐ事もできますし、挑戦の過程でスキルは身に付きます。スキルを持っている人は、いくらでも代替が効く一方、何かに挑戦して行動するのは、その本人だけです。だから人を引き付けるエネルギーが宿っていると考えます。喩えば、ピカチュウは「かみなり」という技(スキル)を取得する為に行動しているのではなく、他のポケモンとの日々の闘い(挑戦)を通じて、気づいたら「かみなり」という技を取得しているのと同様に、スキルは付随的なものであって、挑戦しようと行動する事にこそ真の価値があるのです。
私もまだ社会人5年目(現:28歳)ですが、会社に私より年齢が一回り、二回り上の上司もたくさんいます。私が高校生たちからエネルギーを感じ取ったのと同様に、上司も部下・若者から何かしらのエネルギーを感じ取っている、乃至は、感じ取りたいと思っているのかもしれません。
「若さ」とは、形式的な年齢ではなく、何かに挑戦しようとする尊い精神と行動に落とし込む推進力を指すのだと今回のボランティアを通じて思いました。70歳になっても、何か新しい事に挑戦する人は若いと言えます。
ここで社会に目を向けると、大人が若者に主体性や挑戦心を育もうとする恣意性を感じるのは私だけでしょうか。そのようなきっかけ作りは重要ですが、そこには若者は年齢的に若いという理由から主体性や挑戦心が必然的に備わっていると大人に決めつけられ、単にエネルギーを感じ取りたい大人のエゴの側面もあると考えます。若者も大人からの過度な期待をプレッシャーに感じ、「若さ」が自然な状態で発揮されず、両者でのすれ違いが起きているのではと見ています。全若者に「若さ」が備わっているとは限りませんし、70歳以上の人でも「若さ」を備えている人もいます。
そもそも、「若さ」という武器は本来誰にでも備わっているものだと考えます。ただ、それを行使するタイミング、乃至はそれに気付くタイミングは人それぞれです。中には、90歳になって行使する人もいれば、一生行使しない人もいるかもしれません。しかし、若者は年齢的な条件のみで「若さ」という武器を行使するべきだと判断され、大人からの変なプレッシャーが社会に蔓延している気がしています(昨今では、若者に夢を求める事を「ドリームハラスメント」というみたいです)。大人は自分の家族を築いていたり、社会的ステータスがあったり、若者より相対的にリスクをに取りにくい状態にある確率が高いのは事実かもしれませんが、確率論を前提とした属人的な条件は本来関係ないはずです。しかし、それらの属人的な条件が若者に勝手に適用され、若者は変なプレッシャーを負わされています。
「若さ」の行使タイミングは自由という事を大人が認め、若者に「若さ」を助長するのではなく、年齢に依拠しない「若さ」を尊重し合えば、より安寧で心豊かな社会になるではと、今回のボランティアを通じて思いました。