【BE A CREATOR】100分de名著『資本論』を読んで
最近読んだ書物の中でかなり印象深かったので、感想を共有したいと思います。『資本論』は言わずと知れた名著ですが、そのダイジェスト版として、かなり読みやすく、色々考えさせられました。
この記事では、私が本書を読んで印象深かった事や私なりの考察を書きたいと思います。印象深かったのは、労働者の「自由」についてです。資本主義社会において、マルクスは労働者は以下の通り、二重の意味で自由と指摘しています。
①奴隷のように鎖に繋がれて強制労働をさせられている訳ではないという意味での自由
②生産手段からの自由(=生きていく為に必要なものを生産する手立てがないという意味)
①についてですが、どのような仕事に就くかは本人の自由であり、仕事に就かないという選択肢もある一方、生活する為には自給自足の道を選択しない限り、「お金」が必要です。
では、何故生活する為には「お金」が必要になってしまったのか。資本主義社会では、あらゆるものが「商品」に姿を変えていくことに起因するとマルクスは指摘します。資本主義以前の社会にも「商品」は存在していましたが、その多くは贅沢品や交易品で、日常の生活に必要なものは基本的に自分たちで作ったり、みんなで集めてきたり、分け合いながら暮らしていました。一方、資本主義社会では、生活に必要なもののほぼ全てが「商品」として売られ、人はそれを買って生活を営んでいます。結果的にほとんどの人は、「商品」の対価となる「お金」なしには暮らせなくなってしまいました。
では、お金なしには生活できない社会において、普通の人が生活の為に売ることができる唯一のものは自分自身の労働力となります。生きる為に必要なものを買うよう、「消費者」として貶められ、労働者は自らの自由を資本家に売る事でしか生計を立てたれなくなりました。
②についてですが、現代社会においては当てはまらない部分もあると思います。『資本論」が執筆された19世紀は、資本家が生産設備を独占していた為、労働者には生産の手立がありませんでした。一方、インターネットの普及による現代の情報化社会においてはどうでしょうか。例えば、生産設備を有さない普通の人であっても、noteで有料記事を「商品」として販売することもできますし、プログラミングで作ったWebサービスを「商品」として販売できますし、Youtubeで動画を広告主に「商品」として販売できます。つまり、個人でも「商品」を生産する手立てが多様化した時代になりました。
「資本家」対「労働者」の構図は「生産者」対「消費者」の構図にも置き換えられるのではないでしょうか。今の時代は「生産者」と「消費者」の垣根が徐々になくなりつつあり、まだまだ個々レベルではあるものの、従来の「消費者」が「生産者」になる手段にアクセスしやすくなりました。
生産活動は創造活動であり、人間の根源的な営みは「創造」にあると私は思うのです。
本書によると、労働のプロセスは大きく構想と実行の二つに分けられると指摘されています。人間が頭で考える構想の作業が「精神的労働」である一方、実行の作業は自身の身体を使った「肉体的労働」です。資本主義の下では生産能力が高まると、その過程で構想と実行が分断され、「構想」は特定の資本家や資本家に雇われた現場監督が独占し、労働者は「実行」のみを担っていると、マルクスは指摘します。
人間は文明・技術を発展させながら人類史を築き、社会を豊かにしてきましたが、その全過程は「創造」に集約されると考えます。つまり絶え間ない創造の連鎖によって現代社会が成り立っており、創造こそが人間の根源的な営みなのです。「創造」=「構想」+「実行」として表すと、その両輪が合わさって初めて人間は自律的なやりがいのある労働を実現できると考えます。
本書は構想と実行が分離されていると指摘していますが、現代社会においては、構想と実行の分断による亀裂は従来より修復してきたのではないでしょうか。
記述の通り、消費者が生産者になる手立てが多様化しており、従来の労働者(消費者)も生産活動(創造活動)に着手し、人間の根源的な営みにアクセスしやすくなった時代です。つまり普通の人にとっては、超絶ラッキーな時代になったとも言えます。19世紀の労働者階級の人からすると、願ったり叶ったりな時代です。
こんな超絶ラッキーな時代をtake chanceしないままにいるのは勿体ないと思いませんか。
BE A CREATOR
題名の通り、本書を通じて私が一番強く思ったことです。
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