見出し画像

⬛︎読書記録 くらしのための料理学(土井善晴)


一汁一菜でよいという提案を読み、とても良かったのでこちらも読んでみた。世界観はもちろん繋がっているので、同じような内容も書かれてはいるが、こちらの方が短く、おそらく軽く読めるので、おすすめしたい。
全ての毎日頑張って生きている人に響く哲学だと思う。
『頑張りすぎたらあかん。程よく手を抜いて、生きることを、自分自身を肯定していこう。』
そんな風に私の背中を押してくれたのだ。

土井先生は、よくSNS上でバズるような、"時短料理"のオファーは、受け付けていないらしい。
でも、だからといって、毎日手の込んだ料理を作れ。と言っているわけではない。
あくまでも、"食べる"ということは、"生きる"ということを伝えたいのだ。
料理は、めんどくさい、しんどい、負担だと言う気持ちで臨むものではない。生きるということを面倒だと思わず、今を生きてほしい。という想いが込められているのだ。
先生が、一汁一菜を勧めているのはそういう観点だ。少ない量で満足しろと言っているわけでもない。足りなければおかわりすればいい。ただ、作り手が辛くなるような食事の仕方はやめなさいと言っているのだ。程よく手を抜き持続可能、それでいて情緒的。そんな時間を暮らしの中に作るのが、食事の場なのだ。

この一年、私の料理に対する気持ちの変化はまるでジェットコースターのようだった。
息子が産まれるまでは、夫は作るとしたらカレー程度、基本は私が料理の担当。しかし当時の仕事は夜型。夜22時に帰宅してから料理など作れないと思い、とにかく作り置きの日々。しかし、飲み会が入ったなど作り置きが無駄になることも。でもそんなこと言ってられないし。昼はコンビニ。仕事しながら食べられるものだけをセレクト。朝ごはんは食べたり食べなかったり。あぁ1日分の栄養を補える飲む点滴の発明は、まだなのだろうか?などと考えていた。
そして息子が産まれてからは、ほぼ1年間、1日13〜14回の頻回授乳が私を待っていた。24時間のうち、14回授乳があるというのは、睡眠は基本的にまとめて3時間が限界である。なんと言っても赤ちゃんに昼夜はないのでだ…
となると、自分の食事は疎かになる。食べていたものといえば、味の素冷凍チャーハン。ほぼ毎日これだ。(!)
晩ごはんだけは、夫のために作らなければいけない。でももう疲れ果てて、作れない日だってあった。じわじわと、お前はなんのために生きているのか?と私に問う、心の中にできる黒いもの。最初はほくろ程度だったのに、気づけば全身に広がった。
離乳食も始まった。自分で作りたい気持ちもあった。もちろん作った。でも、食べたり食べなかったり、ちゃんと食べてくれない理由は何故だろう?ベビーフードは本当にコスパが悪かったが、ベビーフードは当時の私の気持ちを大いに支えてくれた。そしてコロナが流行り出してからは、外にも出られず、ストレスも溜まる。出前館でクレープを頼みまくる始末。それでも、なぜか体重は減りつづけた。おかしいなぁ、食べてばっかりなのに。食べても食べても足りないのに。そんな日々だった。気づけば体重は15キロも減っていた。ラッキーなんて思っていた私が憎らしい。
そして去年の夏、健康診断で悪玉コレステロール数値が高すぎるという過去経験のなかった結果に見舞われ、なんと卵巣に良性ではあるもののほっといたら救急搬送される可能性の高い腫瘍ができてしまったのだ。産後すぐの検診ではそんなものなかった。この一年で、この乱れた生き様が作った腫瘍なのだ。
ありがたいことに、息子は健康だ。でも、肝心の育てる私がこんなんじゃ、やばいやろ。
もちろん即手術である。
鈍器で頭を殴られるような衝撃が走った瞬間だった…

そう。私は"ちゃんと"生きていなかったのだ。
ちゃんと生きられない状態を、どうにかして脱却したかった。
何より、この全てが私中心で、私が頑張らなければいけない、私が倒れたら全て終わるような家族や人生を、ドラスティックにでも変えよという天からの指令だ。
そう思って、手術を決めた。そして、退院後、私はもう絶対に無理はしないのだ。ちゃんと生きるのだ。そう決めた。
そんな中で出会ったのが『一汁一菜でよいという提案』だった。

現代人は忙しい。子育て中の私だけじゃない。みんな毎日必死に生きている。特に、この行き過ぎた資本主義社会はいつ貧困になってもおかしくないような、そんな生存競争の中で生きている。みんな当たり前のように、お料理をしない、できない理由に囲まれている。
だからといって外食ばかりは経済的にも栄養的にもバランスを崩す。人間が人間のために作った社会で頑張って仕事をしているのに、ストレスになってうまくいかない、心のバランスがとれない…みんな同じだから、仕事や子育てはそんなもんだから。そんな風に言い聞かせようとも心が楽になるわけではない。
自分の生活に自信が持てているだろうか。健康でありたいと思いながらも、生きる要の食事を面倒だと思う。そんな相反する気持ちを抱えてはいないだろうか。
日々、自分自身の"暮らし"を大切にできているだろうか?
自分や、自分の家族、健康、心の充実…このままで良いのだろうか?
そんな不安を支えてくれるのが、暮らしである。リズムが整った暮らしの柱となるのが食事である。食事は自然や社会、他の人々とつながって生きるという、すべてのはじまりなのだ。

暮らしの基本を作ることは、生活の美意識を取り戻すきっかけであると。
基本があるからこそ、その基本が未来を選択する基準になる。よきことはすべて未来からやってくる。
美はよき未来の予測だ。

"ふつう"とはいつも違うことなのだ。
人も自然も、移ろうことが自然。それが、"ふつう"なのだ。人間という自然、社会というものは常に変化する。見えない未来の中でどう自分にとってよきものを選んでいくか?
そこで、変わらない、毎日変わらない、たんたんと暮らす、といったブレることのない基準のある暮らしを作るのが一汁一菜というスタイルなのだ。
その基準が、人を人間たらしめ、その姿こそが美しいのだと私は解釈した。

今これを楽しもうよ、と土井先生が直筆で書かれたものをみたことがある人もいるだろう。土井善晴の和食アプリにあるお料理を撮るためのフォトフレームだ。(なぜか一流シェフが作ったようないい感じのお料理に見えるので出来上がった料理を撮影しては夫に送りまくっている。)
今回そのフォトフレームの言葉が、その言葉の意味が、本書を読み深く理解できたのだ。
食事は、"この瞬間を心に留め、その場を共有するもの。"
食事の中には、季節、環境、家族の状態、作り手の余裕だったり、そこには喜びも悲しみもある。それも丸ごと受け取るのが食事なのだ。(丸ごと受け入れるという言い回しは、一汁一菜で良いという提案という本にも記載がある。)

同時に食事は、常に他者と関係している。
たとえ一人暮らしで一人でご飯を食べていたとしても。
生産者や製造者、そして大いなる自然。
そうした他者との関係性を通して豊かな情緒が生まれるのだ。愛情、思いやり、共感。

例えば同じものを食べても、去年食べた自分とも、昨日食べた自分とも、もう違う自分なのだ。何もかもが違うのだ。
1年前、10年前の自分と今の自分との比較もできる。
味わいには、過去の思い出も、未来への想像もある。
同じ瞬間は二度とない、一期一会の刹那を食事は感じることができる行為なのだ。

そういった感情の動き、もののあはれを心に楔を打つように刻みつける。
深く思考するわけではない、ただ受け止める。そこにあるのは何だろう。今日の夕食で、私は何を感じ、あなたは何を感じるだろうか?

また、
料理=労働という観点も非常おもしろい。
料理が人間を人間たらしめる
労働=人間の条件の基礎的側面
地球と人間の関係も、人間である条件

"料理=労働=人間の基礎的側面"の中で、人は自分でものを選ぶ力をつけることができる。
作り手や自分自身と、自然や家族と、情緒のやりとりがなければ、利他性は育まれないのだ。
例えば私がイメージしたのは、夕暮れ時に小道を歩くと、どこからか夕食の出来上がる匂いがする。あ、どこかのお家は、今晩カレーかな?と、ふぁっと何かあたたかく包まれるような感覚になる。そして同時に、台所に立っている母や父、祖父や祖母のお手伝いをして喜ばれる姿を想像し、そして帰路に着いていた少女の頃を思い出す。すべて、身体で感じるのだ。これが情緒であり、利他なのだな、と思うのである。

ものを選ぶ力は、違いを感じ取る力だ。
それがなくなれば想像も創造もない、薄っぺらいのだ。
違いがわかるからこれがいい、あれがいいと言えるのだ。
息子も1歳だがすこしずつ、食べるもの食べないものが出てきた。それも、一つの情緒の発達なのだと思うと、救われる気持ちになる。
自分自身、支えてくれる全ての人や大いなる自然をありがたく、慈しみ楽しめる人に成長してくれたら、と切に願うのだ。

今、わたしはほぼ一汁一菜で毎日を回している。夫にも、一汁一菜で私が生活したい想いを背景を含めきちんと説明をした。自分が辛くなるような生活は家族が求めている生活ではないと、パートナーとの目線合わせをすることにも繋がったのだ。
特に、私の周りにいる女性たちは、毎日頑張りすぎている。そして、周囲のちゃんとしてそうな人たちをSNSで見ては、落ち込むことだってあるかもしれない。
でも、大事なのは、自分自身の状態であり、心のバランスが取れていることなのだ。
家族のお世話をする前に、仕事に取り掛かる前に。まずは自分自身が、心の置き場があり、心地よい場所に帰ってきた!と毎日思える暮らしのリズムを作ることができているか?心のバランスを取れているのか?

面倒くさいと思った時は、多分バランスが乱れてる。何かが過剰で何かが足りないのだ。
そんな時こそ、自分の人生と本気で向き合い、生きたい人生を生きるチャンスなのかもしれない。と、私にとっては大きな学びとなったのだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?