金星のアートマとカーマ (Original version)
第一石板 美と生命の布
どこからお話ししましょう、そうあそこから。21世紀にはまだ慎みが残っていたのです。でも月への入植が予想以上にうまくいったことで、享楽への執着を否定する必要はないという潮流が強まりました。それでそうした思惟は次第に消滅していったのでした。貪欲とか貪るというような語が死語となったのは、早ければ23世紀中葉と言われています。火星への入植が始まった頃、人間の管化技術が発明されて多くの人が管化を選択すると、人間の寿命は飛躍的に伸びました。当局の最後の発表では人間の平均寿命は286歳でした。そして人口は500億を超えていました。地球の大型動物はずいぶん昔に全て滅び、人間とごく小さな動物と植物ら、そして微生物しかいませんでした。持続した地球外生命はいまだに見つかっていませんし、その頃まで私は人間――多くが人間と呼ぶことがためらわれる生殖器と量子コンピュータが付いた管ですが――以外の動物を見たことがありませんでした。
果てしない因果があるのは自明ですが、一方で、その全てを知り抜くことはできません。ともあれ私は金星にいました。私の父は金星への植民計画の全権主任でした。私は父の秘書でした。地球と月を荒廃させてしまった私たち人間にとって、火星もそれほど先が長くないことは明らかでしたから、金星への植民計画は火星と並行して進められてきました。三つの惑星と月とで当面はしのげようから、その間にエウロパやガニメデへの植民技術を開発するという筋の叙事詩が、ここ数世紀の人間を端的に表現するでしょう。でも金星への植民は火星とは比べ物にならないほど困難でした。金星の大気変成がほぼ完了したのは私が生まれてからのことで、私たちが先遣隊として安定して活動できるようになったのは、私が父の秘書になってからのことです。火星はすでに人間で埋め尽くされつつありました。
若い頃の父は、火星の持続可能な開発計画の提唱者でした。地球と月を破壊したことの教訓を啓蒙する活動をしていました。でもその活動は数年で終わりました。当局の弾圧を受けたのは確かですが、それよりも、賛同する人がほとんどいなかったことのほうが主要な原因なのでした。その父が金星植民団の全権主任を務めていたのは、おおむねふたつの理由からです。ひとつは、工学者としての父が当局のAIによって高く評価されていたこと。もうひとつは、父が金星での当局への反乱を計画して、この職を強く志願したこと。父は政治家ではありません。政治家はずいぶん昔にいなくなりました。当局にいる人間は工学者と数学者、そして軍人だけですし、当局で使用される言語は数式のみです。
父は胃癌を患っていました。その頃でも人類は癌の根本的な治療法を発見できずにいました。とはいえ管化した人間は必要な器官が大幅に減りますから、細胞交換によって癌をほぼ克服できるようになっていました。でも父は管化を選択していない数少ない人間のひとりでした。当時の私の年齢――20歳でした――の人間はほとんど管化していましたが、私も手術を受けていませんでした。
管化技術について書き記しておかなければなりません。管化技術は、人間が追及してきた延命技術の一到着点です。それは端的に、有機的な細胞をほぼ一本の管と生殖器のみにする手術です。神経系は量子コンピュータに置き換えます。食べ物――液体が主流です――が管の間を通る間、性交している間、快感が神経系――コンピュータですが――へ伝達されます。管化した人間は眠りませんし、一瞬たりとも快楽が途切れることを好みませんから、常に食べ物を管に通すか性交するかどちらかをしています。つまりこのふたつが人間の行為のほぼ全てでした。
いいえ、もうひとつ人間の行為と呼ぶべきものがありました。紛争のこともお話ししておくべきです。平均寿命についてお話ししましたが、私が生まれた頃には、最も多い人間の死因は決闘によるもので、次に多いのは内戦による戦死でした。決闘の自由が合法となったのは5世紀前です。決闘の原因はさまざまですが、お金についての係争が最も多く、次に多いのは夫婦や親族間のいさかいでした。当局は一応統一を保っていたのですが、恒常的に内戦を繰り返していました。それは本質的には、大昔の権力闘争と何ら変わらないものです。そうです、人間同士で殺し合って死ぬ人がほとんどで、老衰や病気で死ぬ人はとても少なかったのです! 倫理という語が用いられなくなって久しいですし、人々にとって殺し合いで人間の数が減ることは、生産的ですらあると見做されていました。人口の爆発こそが人間社会の第一の問題と位置付けられていましたし、人々は決闘や内戦のニュースや映像をすら娯楽として楽しみ消費していたのでした。
さあ、姉のこと、そしてカーマのことをお話しするときです。控えめに言っても父は、火星ではあまりに素朴でした。人々の良心に訴える、最も単純な方法を取ったのでした。でも今度は慎重でした。私を除いて、反乱の計画を他の人には一切明かしませんでした。そうです、姉には秘密にしていたんです。確かに姉は父の思想を理解しようとしていませんでした。快楽主義者、暴力主義者という点で、他の人々と何ら変わらないようにも見えました。でも姉がその時――私が20歳で姉が22歳――まで管化手術を選択しなかったのは、父の影響であるに違いなかったのですし、もし父が姉に反乱の計画を打ち明けていたとしても、姉は当局に密告などしなかったと私は今も信じています。
どうあれ、その日姉は友人たちの強い勧めに従って、管化手術を受けました。金星にも先遣隊員のための管化手術の設備はあったのです。手術室から出てきた姉の姿! 私は姉に触れることができませんでした。私にはそれは化け物にしか見えなかったのです! 私は恐怖と憐れみとがないまぜになったような激情に捕われました。走って逃げ、マンゴーの森に駆け込みました。それは私たちが金星に作った最初の森で、私たちにとって金星環境の変成が成功したことの一象徴でした。私はマンゴーの木に向かって父に教わった作法で両手を合わせ、心の底の激しい気持ちを"神様"に訴えました。
「お慈悲ですから、彼らを何か、美と生命の布で覆ってやってくださいませ」
そのときです、私が初めてカーマを見たのは。私のそばに水滴がぽたぽた落ちるのが見え、次に、拳銃を持ったカーマが現れたのでした。カーマは言いました。
「この水が涙なのですか? 私は生まれて初めて泣きました。おそらくは、私はいま生まれて初めて感動しています。プルシャの娘アートマ、あなたはいま何をしているのですか? 私はそれをこれまで見たことがないと思いますが、あなたはいま、とても美しいことをしたのですか?」
私は答えました。
「私は美しいことをしたのではありません。あなたが美しいと感じたのです。私は姉と人々を救ってもらえるよう、"神様"に嘆願したのです」
カーマは言いました。
「神様というと、25世紀頃まで信じられていたというものですね? でもなぜそんなことを?」
私は答えました。
「憐れみから」
カーマは言いました。
「憐れみ? 知らない言葉です」
私は言いました。
「いいえ、あなたはそれを知っています。あなたはそれを見て、心に映し取り、それとなったのです。そのためあなたは涙したのです。それにしても、あなたはどなたですか? あなたはなぜ、私の目に見えない形でここへ来て、拳銃を手にしているのですか?」
透明化の技術は近年開発されたものですが、非合法となっていました。でも当局の工作員は使っていると聞いていました。カーマは答えました。
「不思議なことです、アートマ。私はあなたに虚偽を述べることができません。私はカーマ。当局の評議員である母からあなたの父プルシャとあなたを殺すように命令されてここへ来たのです。あなたを撃とうとしました。しかしきっと私は逆に、あなたのその、憐れみという名の弓矢によって撃たれたのです」
カーマは私と同い年の、凛々しい美丈夫でした。
第二石板 波立った海
初め父は、カーマを擬古的な仕方で呪いました。
「シヴァに同じ悪ふざけをした後、カーマはシヴァの第三の目の炎に焼き尽くされ、傲慢さから解放されるだろう」
でもカーマと話をしてからは、カーマを自分の後継者として認めて祝福しました。
「カーマよ、いかなる疑いも持たないでください。聞いてください。恐怖を捨ててください。幸せになりなさい」
カーマは私を見る前から、人々の有様に疑問と悩みを抱いていました――もちろん、彼が管化を選択していなかったのはそのためです――それからふたりとも優れた工学者でしたから、気が合ったのかもしれません。それで父はカーマに生命史と人類史の講義を行いました。それは私が幼い頃から聞いてきた子守歌でした。カーマはまるで喉が渇いていて水を飲むように、夢中になって学びました。
私はこのことにカーテンを引くこともできます。でもあなた方のためにはそうすべきではありません。ですから包み隠さずお話ししましょう。
父にカーマを愛しているかと尋ねられました。わからないと答えました。本当にそうだったのです。すると父は言いました。
「いちど接吻してみれば、全てがわかるだろう」
カーマは何度か私に接吻しようとしたことがありました。そのたび私は拒絶していました。ふたりでマンゴーの森を散歩していたとき、カーマはまた私に接吻しようとしました。それで私は試しに受け入れてみたのです。父が言ったことは本当でした。私の心に火がつきました。カーマを愛していることに気づきました。カーマは一度私の息を捕えると、愛の激流の堰を切りました。激しく私を求めました。私の方でも一度カーマの体に触れると、カーマと同じような具合になってしまって、もう恥じらいもためらいもなくなって、着物を脱いで、女の秘所を開きました。彼は私の秘所を捕え、愛の行為を降り注ぎました。来る日も来る日も私たちは交わりました。こんな太古のやり方そのままに、私はカーマの子を宿したのでした。私は古人に習いこれらをこう表現したいと思います。それは神聖な営みだったと。
私が本当にカーテンを引きたいのは、むしろこちらのことです。でもお話ししなければなりません。父の、そしてカーマも協力することになった反乱の計画についてです。それは非技術的な要約では、量子的な、工学的な仕方で、人々から貪欲と暴力への志向を切除するというものでした。これこそが恐ろしい暴力です! 私は何度も父とカーマに訴えましたけど、ふたりはそれを承知の上でした。父の言い分はこうでした。
「太古の人々は犠牲を焼き、その火を神々に捧げた。その灰を体に塗った。私は彼らの焼き清められた貪欲と暴力の灰を体に塗るだろう」
でも父が灰を体に塗ることはありませんでした。父はカーマを得てから癌の治療を辞めていました。私のお腹が大きくなった頃父は亡くなり、金星の火で焼かれたのは父自身でした。灰は父の遺言通りマンゴーの森に撒きました。そのときの私の慟哭の有様については、あなた方に正確にお伝えすることは不可能です。
カーマは私の説得を受け入れて、父の反乱計画を変更しました。工学的な技術を用いるという点では同じですが、ずっと非暴力的なものでした。それはカーマが私と会う前から研究していた技術で、簡潔な記述では、金星を薄い事象の地平線の膜で覆うというものです。太陽光を利用できなくなるという大きな問題がありましたし、何かもっと根本的な問題があるような気がしましたけど、金星の外からのいかなる干渉も排除できるのは確かでした。カーマはこの技術に、古代人の名を取って命名しました。墨壁と。カーマは墨壁の開発に没頭しました。
その朝――私たちにとっての朝です。太陽はまだ当分沈みそうにありませんでした――カーマは体操をしに海へ行っていました。私は小麦のパンと干しマンゴーの朝食をこしらえ、カーマを呼びに海に行きました――私は朝食を食べてから体操することにしていました――カーマが浜にいましたので声をかけようとしますと、突然海が震え、波立って、"私"が海から現れたのです。私が仰天していますと、カーマが言いました。
「母上、なぜあなたは自らの姿を捨て去り、私の愛しい人の姿をとったのですか? 私を憐れんで、その理由を教えてください」
"私"が言いました。
「愛しい? 憐れむ? 奇態な言葉を覚えたね。なに、お前をからかったまでさ」
私が見ていますと、"私"が変身しました。女性器のついた管人間に! 私は我を忘れて絶叫しました。それでふたりは私を見つけました。管女――いいえ、義母と呼ぶべきです――義母が言いました。
「お前だね、カーマの愛着を私から奪ったのは。なんてこと、お腹が大きいじゃないの! カーマをたぶらかしただけでなく、子供までこさえるなんて! 確かに綺麗な顔立ちと立ち姿。さてはカーマが狂ってしまったのはそのせいか、憎らしいったらありゃしない。だけど見るがいいさ、今この場でその自分の道に外れた容色を後悔させてやるから」
義母は拳銃を抜いてカーマに渡しました。
「さあ、どうかお前、母と子の切りえぬえにしにかけて、お前の弓矢の快い痛手によって、頼むからお母さんの仇をとっておくれ。これだけは忘れずにね、この小娘が容色を鼻にかけてるのをうんとどやしつけてからだよ」
カーマは言いました。
「愛しい母上、あなたを拝礼します。ですが疑いから自らを解放してください。幸せになってください。私はアートマを愛しています」
カーマはそう言って拳銃を義母に返しましたので、私は勇気を奮って義母の前に進み出て言いました。
「お義母様、あなたの義娘アートマがあなたを拝礼いたします。私はカーマをたぶらかしてなんかいませんし、容色を鼻にかけたりなんかしていません。疑いから自らを解放してください。幸せになってください。私はカーマを愛しています」
義母は言いました。
「殊勝じゃないか、姑に挨拶しにおいでなすったってわけだね。よござんす、腹を割って話そうじゃないか。もっともこちとら、お前たちの魂胆なんざすっかりお見通し。自分たち金星人以外を滅ぼそうなんて、大それたことを考えたものだよ。人類史上最も暴虐な者とは、正真正銘お前たちのことさ。疑いから自らを解放? 幸せに。おめでとうござんす。どこのとんまが信じるものかね」
カーマは言いました。
「母上、誤解があるのです。私たちの秘密の計画を母上にだけお教えしましょう。私がいま開発しているのは墨壁です」
義母は言いました。
「お前がその頓狂な名前をつけたのは、さてはブラックホール障壁のことだね? ふん、考えたじゃないか。そんなら勝手にしやがれってところさ。金星人たちはこの炎の星でちまちま生きていけばいいさ。でもね、それを認めてやるかわりに、ひとつ頼まれちゃくれないかね。冥王星の地下海水にRNA分子の残骸があるのは知ってるね? 私らはそれが入用なのさ。お前たちはずいぶん仲良しらしいから、一緒に行ってそれを取ってくるんだ」
カーマは尋ねました。
「それは何のために使うのですか? 貪りのためですか? 暴力のためですか? それとも、歓喜のためですか?」
義母は答えました。
「知らぬが花さ。まあ、お前たちが好きな古語で、美のためと言っておこうかね。少なくとも、私にとってはそうなんだから。とにかくこいつはちょっと急ぎでね。冥王星へ量子転送でちゃっちゃと行って、海水は箱に入れて、おんなじように私のところへ転送しておくれ。こいつを試験としようじゃないか、お前たちが真実か否かのね」
人間の物理量子転送は非合法でした。成功例はたくさんあったのですが、失敗例も少なくありませんでした。その末路については説明したくありませんし、考えたくもありません。いずれ、私とカーマにそのほかの道はなかったのです。
第三石板 大洪水
私もカーマも灰になることを恐れていませんでした。そうなったなら、私のお腹の中の子があんまりにも憐れだと思うばかりでした。でも私たちは未来のことをくよくよ思い悩むということがありませんでした。はい、私たちは幸せでした。
冥王星の基地は義母の軍閥の管轄にありましたから、義母は地球から箱と地下海水を採取するための機械を転送してくれました。ですからあとは私たちが行けばいいだけです。物理量子転送の設備は金星にもありました。もちろん海水を取って送るだけなら、ふたり揃って冥王星へ行かなくてもよかったのです。でもそれでは義母との約束を違えることになってしまいますし、何より私たちは、死に別れるなんて想像もできなかったのです。
カーマは憐れな小麦の株を使って何度も試行しました。一度も失敗しませんでした。私たちは転送台に乗りました。私は心を落ち着かせてカーマに抱きつきました。白い光が私たちを包みました。恐怖はありませんでした。一瞬気が遠のきました。気づくと、私たちは冥王星にいました。あなた方はゆめゆめ、これを当然のこととは考えないでください。私たちはたまたま幸運だったのです。私たちが犠牲の火に入って純潔性を証明したなどと称賛しないでください。そもそも量子転送などというものは、貪欲の終着駅に他なりません。
地下海水の採取自体は、単純な作業です。箱に採取しました。検査すると、充分なRNA分子の死骸が入っていました。持続した地球外生命が見つかっていないことをお話ししましたが、すでに滅んだ高分子の残骸であれば、冥王星以外にもたくさん見つかっていたのです。ですからどうして冥王星のものでなければならないのか、私はもちろんカーマにもわかりませんでした。でも採取できたんです。深く考えませんでした。箱を義母に転送しました。義母は箱の海水を検査して、地球からこんなことを言いました。
「実際お前たちは見上げた度胸だよ。試験は合格ってことにしてやろうじゃないか。お前たちが戻ってきたら私は孫に会えるんだろうから、あんまりぐずぐずしないで、金星へ帰る前に地球の私んところへ来るんだよ。さあ、私はお芝居を見に行くから、支度をしなくっちゃ」
私とカーマは義母の祝福に喜びました。お芝居というのが何のことなのかわかりませんでしたけど。
全権主任の職は父の友人が引き継いでいましたし、姉も副主任として働いていましたので、私たちが再び光の火に入る必要はありませんでした。冥王星を旅立ちました。私たちの赤ちゃんは、開いたばかりの目で地球を見るはずでした。
冥王星の海水の入った小箱がありました。カーマが提案したことでしたが、私も支持したのです。義母が"美"と表現した冥王星の高分子のどこが特別なのか、惑星間旅行の間に調べるのは、魅惑的なことと思われたのでした。私たちは小箱を開けて海水を取り出し、分子を顕微鏡で見ました。そうして私たちは気を失いました。私は夢を見ました。
私は海面に浮かんで太陽を見ています。白い光線が降り注いでいます。私は父の話を思い出します。地球の生命の起源が、太陽光に反応して散逸構造化した分子の、自然な熱力学的消散選択にあったことを。他の星の高分子が存続できなかったのは、地球のそれのように強い"欲望"を獲得できなかったからだと語る父の穏やかな笑顔を思い出します。父によれば欲望は心の種子であり、シヴァの目の炎から逃れるために燃やされる燃料です。尽きぬ欲望こそが、私たちが共通祖先から一度も滅びずに生き延びてこられた、奥所の秘密です。
次に私は森の中に立っていました。おそらく私は一樹木です。21世紀頃でしょうか、人間が重機で私をなぎ倒しました。私は泣き叫びます。父によれば人間はこの頃から、それまでは辛うじて慎まれていたもの、貪欲と暴力への肯定を強めました。父は言っていました。それはシヴァの目の炎に追われながら、自らその火の勢いを強めることだった、そうして人間はますます、息を切らして、お尻についた火を吹き消しながら、早く走らなければならなくなったと。きっと私は生命の歴史、つまり私の歴史を体験しました。それは美しくも醜く、楽しくも悲しい、複雑な筋の叙事詩でした。
そして私に立ち帰ったとき、私は赤い火の中にいました。熱いです。体が燃えています。目の前にそびえ立っている門に吸い込まれそうです。門の中は漆黒の夜です。必死にもがきました。誰かが私の腕を掴みました。カーマでした。カーマは力強く私を抱き寄せ、激しい抱擁によって炎を消しました。
目を覚ますと、カーマが私を抱擁し接吻していました。後でわかったことですが、その高分子が20℃程度で二酸化炭素と結合すると、管化していない人間の神経系を麻痺させる化合物を放散するのでした。私たちは7日間昏睡していました。そして私とお腹の子は死に瀕し、カーマが救ってくれたのでした。カーマは告げました。
「自動航行ができない」
目的地は地球に設定されていました。エラーが返ってきます。地球を観測しました。あるべきところにありません。月もです。火星もです。金星はありました。でも通信できませんでした。何が起こったのかわかりません。私は産気づきました。赤ちゃんはカーマが取り上げました。女の子でした。歓喜が生ずるときには痛みが伴うことを私は体験しました。それでアナンダムと名付けました。
ですから金星に到着したとき、私たちは3人でした。そして、最終的に私たちは結論しました。人類は私たち3人だけだと。何が起こったか、あなた方はご存じです。これが大洪水と呼ばれる出来事の経緯です。物理的情報や技術的詳細については、今なおあなた方が研究されていることですから、私がお話しする必要はないでしょう。取り急ぎの調査で私たちが確かめたのは次のことです。冥王星の高分子が大洪水をもたらした恐ろしい兵器の原料になったこと、それが義母の軍閥から他の軍閥へただちに漏洩したこと、そのときたまたまカイパーベルトにいた人間が私たちだけだったために私たちが生き残ったこと。これらを知った私たちはどんな感情を抱いたでしょうか。こうであった、従って教訓はこうである、などと説明するのは気が進みません。あなた方はどうか他人事とは見做さずに、ご自分に起こったこととして、ご自分の知性で洞察し、ご自分の心で感じてくださいますように。そしてあなた方自身の言葉で、この石板の物語を語り継いでくださいますように。
でもこのことはお話ししたい衝動を抑えることができません。私たちを除いた人類の絶滅が明らかとなったその日、マンゴーの森の木々が一斉に白い花を咲かせました。不思議なことでした。私はアナンダムを抱いてカーマと一緒に森へ行きました。甘美な香りに包まれました。花々を眺めていました。するとアナンダムははしゃいで笑いました。私とカーマは泣きました。これがあなた方の始原にあった光景です。立ち止まって、この光景をあなた方の心に描いてください。
今では私たち一族はずいぶん増えました。いまのところあなた方は、始祖を同じくする兄弟ということを忘れてはいないでしょう。それを忘れないでください。誰とも敵対しないでください。他者ではなく自己を見て、慎みとユーモアを命綱としてください。
あとは何を言うべきでしょうか。何よりもこのことを。幸せになってください。