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【短編小説】スパイス #忘れられない恋物語


スパイス


               今秦 楽子



地平線は白く遠くの建物の輪郭を描いている。
天頂を仰ぐと雲ひとつない淡い碧への
グラデーションが美しい。 皐月。

慌ただしい朝を整え、荷物搬出の日。
5日前、
彼女が残していった物たちは梱包された。
今日を待つため。

彼女は「もう逢わない」と。
彼女の門出を祝うでもなく。
川が流れるかの如く自然に、自然に。
彼女はわたしから離れてゆく。
もう帰らない、戻らない。

わたしは余した時間に
彼女とのストーリーを振り返り綴る。
夢のような時間。
そのしるしを抱きながら
これからの未来を描くだろう。

彼女は過去を精算し、
そして未来へと旅立つ。
今までがなかったことのように括るのだろう。

共に過ごした時間だけれど。



あの頃


彼女は短大生だった。
一般的な教養を身につけていた最中。
知人の紹介。単純な出会い、夏のことだった。

わたしは小さな印刷会社に勤めながら細々と
タイプライターに向き合う作家志望の頃。
そう、そんなに暑くもない夏だった。

「主婦になるのが夢なんだ」

「どうして?」

「小さい頃は、お母さんは仕事ばかりで
それに嫉妬していた。
お母さんが家にいるお友達が羨ましかったな」

「じゃ、その夢の手伝い、僕にさせて」


若かった私たちは、
そんな大雑把な夢に漠然と包まれていた。
彼女の夢は家事をこなすことと、
子どもを設けて立派に巣立たせること、
らしい。

肩肘はってキャリアを築くことに
全く興味を示していなかった。
当時はキャリアウーマンなんて言葉もあった。
ドラマの中でだけ。
稀で容易ではなかったのも一因だった。

短大の卒業を待って、
わたしは彼女の両親に正式に挨拶をした。
行ったり来たりの通い合い生活に
区切りをつけて同棲を認めてもらうために。

わたしは26才になったばかりで。
落ち着くこと、入籍なんかも考えたけれど。
社会を知ってからがいいと彼女は言った。

彼女はおっとりとした性格にまして、
競争が苦手だった。
氷河期が溶け始めた頃でも、
就職というレールに乗りたくないと
彼女はアルバイトの道を選んだ。
彼女は弱そうで、強かった。

「商店街のいつも買うパン屋さん、
アルバイト募集の貼り紙があって。
どうかな?」

「いつものおいしいところ? 
バタールだっけ、
外がカリカリで中がふわふわで」

「そうそう、で。
朝が早くて。朝食を任せちゃうけど、
あそこ私にあってそう」

「そうだね、
マイペースな君には向いている仕事かもね」

「早くから夕飯の支度ができるから、
夜はだいじょうぶだから」

そう言って彼女は
私と暮らし始めて半年ほど経ったある日、
商店街の小さなパン屋で働いた。
朝の6時から15時まで懸命に。

週に1度、自分で焼くパンに似合う料理を
教室に通って学んでくる。
仕事終わりには青果店で厳選した食材を
吟味し、無地な皿に彼女が彩りを添えた。

食卓は季節ごとに色みを増し
大袈裟だけれどわたしの人生は豊かになった。

月末になると
精肉店でおいしい肉を買ってくる。


「今月は和牛のステーキにしました。
肩ロース、柔らかそうでしょ」

「奮発したね」

「月に一度の贅沢よ」

肉だけにとどまらず、
鮮魚の乗ったサラダと空豆のスープ。
付け合わせに
ニンジンとマッシュポテトを添えて。
毎日腕を振るう彼女だが、
お給料日はさらに腕を振るって。
わたしからの絶賛に大きな笑みをこぼした。
私と彼女との生活、
ありふれた毎日かもしれない。
ただ夢だけは大きかった。 

そんな毎日が一年程。
わたしの温めていた小説が
コンテストに引っかかった。
                                                                                  



きっかけ


週末になると、彼女がパンを焼く。
フワッと小麦かおる空間が大好きだった。
そんな「幸せ」な雰囲気に包まれ
タイプを打つ。
こうして彼女が何か作るかたわら、
空想が膨らんでゆく。
発酵を始めたパンのように。

膨らんだ空想がカタチになったとき。
私たちは何かを捨てなければならなかった。

その賞を受賞してから少し日常が変わった。
ほんの少し。
わたしは相変わらず会社への往復を続ける。
ただ週末になると、
出版に向けた現実的なやりとりが始まった。
彼女の焼くパンの香が
だんだんと遠くなっていった。

空想が膨らむことなく、
それに代わって
目の前のタスクに向き合うとき、
五感はひとつずつシャットダウンしてゆく。
匂いも、声も。気配も。

そんなある日、
彼女はわたしにこう切り出した。

「お料理教室の先生に勧められて。
先生のお師匠さんの先生がいるのね。
三宅先生っておっしゃるんだけれど。
彼女から直接学びたいなって」

「へえ、今の先生じゃダメなのかな?」

「今の先生のお教室も魅力的よ。
先生からね、
あなたは教える立場に立つべきだって
言われてね。
三宅先生のお仕事を
手伝うことから始めてはどうかって。
ちょうど、お忙しくなったらしくて、
助手を探しているんだって」

「教える立場…… そうだね、
君の料理を僕が独り占めしてるのは
もったいないね」

アルバイトは次の人材が見つかるまで
続けながら、できるだけ
「三宅先生」のお手伝いができる日を
優先したいと彼女は話した。

その時まだ、わたしは気付いていなかった。
彼女が掛ける言葉が、
時々わたしを空振りし宙に浮いていたことを。

そしてその小さな虚無を
彼女なりに消化させたいという感情を。

見過ごしていた……うわついていた……
わたしが産み落とした作品の向こう側で。

彼女とわたしは微妙に方向をかえた。
わたしはそんな変化に気づくでもなく、
流れくる未来を確実な現実に、
きちっと置き換える、
そんな作業に没頭していた。

わたしの身勝手。それに尽きた。

1回目の校正作業が済むころ、
彼女はアルバイトから離れた。
時々、挨拶がてらに寄る、
そのパン屋から持ち帰るパンの味を
ふたり懐かしんでいた。

「久しぶりに寄ってみたの、
新しいアルバイトの子ね、
音楽やってるんだって。
けれど見た目はそんなに派手じゃないのよ」

彼女は
ホタルイカをちりばめた
オイルソースのパスタに、
カリふわのバタールを添えた。
今夜は南瓜のポタージュに、
サーモンのムニエルが食卓を彩った。

彼女が調える食卓はいつも華やかで、
やはりわたしの人生は豊かだった。



理想


彼女は寝る前と起きた後にベッドの中で
ペンをとる。
寝る前はその日あったできごとを日記に。
起きてからは測った体温をグラフに。

ご両親の了解を得たといえ、
子どもは
籍を入れてからがいいと言った彼女は、
自身のバイオリズムを把握していた。
彼女と暮らして2年。
本来なら、籍を入れるのにいい時期にきた。
子どもは彼女の夢だった、けれど。
そう、夢になってしまった。
わたしは書籍を、彼女は料理研究を
始めたばかりの頃で。
タイミングとは、そんなものかもしれない。

彼女が三宅先生のところに通いはじめて、
変わりゆく様は今までにない
わたしの喜びだった。
蕾がふわっと花開くように彼女は
いきいきしていた。

「今日は
先生とテーブルウェアを探しにいくの」

「仕事、楽しそうだね」

「そうね、毎日が発見。
お料理と色って奥が深くてね、
食器一つで全く印象が変わっちゃうの。
メインをどう見せるか、
見せたいかが問われるから面白くて難しいわ」

「お目当てのものが見つかるといいね」

「今日は、
白磁だけじゃなくて瀬戸焼を中心に
回る予定なの。いい出会いがあります様に」

彼女の輝く瞳には、
子どもの頃きっとそうだったろう
遠足の前のワクワク感が見えた。
彼女の向かう道は、
華やかで彼女にしっくりきていた。
今は。子どもを育てることよりも。

わたしは相変わらず平日は仕事、
週末になると出版作業をこなした。
いよいよ校正が終わり、作品の顔である
カバーデザイン案が手元に届く。
ふんわりと、
パンの焼ける匂いに包まれて、
彼女とああでない、こうでない、とふたりで
その物語を彩るだろうと想像していた。
1年前はそんな夢だった。
けれど今や
週末にパンの匂いがすることも少なくなって。彼女は、
デザイン案を見ることもなく三宅先生の元へ
出かけて行った。

いきいきしはじめた彼女に
喜びを感じるとともにわたしの元にも、
小さな虚無がやってきた。
わたしもその感情を消化させるべく、
次の作品に打ち込むことにした。
ただ彼女のパンの匂いがしない
このテーブルには、
たやすく空想できたあの日ほど物語は
浮かんでこなかった。

白紙のノートを目の前に背景や人物を
書き出す。テーマはまだ見当たらない。

わたしはパンの匂いのする
かつての彼女のバイト先へ向かった。
商店街は
昔から続く老舗の店舗から新しい雑貨店まで
連なる。
シャッターが閉じられていることが稀で
賑わった商店街。
活気があり常に人混みで溢れるそこには、
新鮮な魚介、青果を売る店をはじめ
店頭でコロッケを売る精肉店など
点在していた。

そんな中、
シックなブルーのオーニングがそのパン屋の
店先を飾っていた。
彼女のかつての職場は、
軒先からふんわりと香ばしい小麦の匂いを
かもしていた。
自動ドアを開けると
鼻腔をくすぐる香草の匂い、
後から追いかけるバターの香り。

「いらっしゃいませ」 

と丁寧にお辞儀をしたのは彼女の話していた、新しいアルバイトの女性のようだった。
本当だ、音楽とは無縁の清楚な佇まい、
彼女は
このギャップを伝えたかったんだろうな。
と今は隣にいない彼女に向けて目を合わせた。

バタールとクロワッサンを数個トレーに乗せ
レジに進んだ。
彼女のいない週末に。



誕生


わたしの元に製本された物語が届く。
彼女にそれを真っ先に手渡した。

「第一読者はわたしなのね、先生」 

彼女が茶化す。

「そう、きちんと本になってから
読んで欲しかったからね」

「ではでは」

そういって、彼女はさっきいれた
ジャスミンティーを片手に
ページを開いていった。
彼女は、時に前のめりになって、
時にテーブルに肘をついて。

「あとは、
ゆっくりあいた時間に読ませてもらうわ」

「どうだった?」

「読みやすくて、次の展開が待ち遠しい。けれど、少しわたしには刺激的ね」

「刺激的、そう」

「あなたがこんなに素敵な物語を
描くだなんて、思ってなかった。
今になって新たな一面を見た気がするの」

一度、本をたたんでこういった。

今まで作品を彼女に見せたことはなかったし、
どんなものを描いたかを話すことはなかった。
小説はあくまでわたしの内なる嗜好品であり、
唯一「自分」を晒せる舞台だった。
たたまれた本を見つめたあと
羞恥の笑みを彼女へくばった。

「あなたの描く文章は素敵よ、
わたし好きだわ」

彼女は少しさめたジャスミンティーを
すすりながらわたしの笑みを包み込んだ。
夢が一つ叶った。そんな瞬間を味わっていた。

製本されてからは、また日常が戻ってきた。
わたしは淡々をと仕事をこなすし、
彼女は料理に魅了されていった。
週末になると漂うパンの匂いもまた
戻ってきた。

わたしは何も変わらなかった。
ただ出版したからといって彼女に「先生」と茶化される以外、別段、何も。
小説は爆発的に売れる事もなかったが、
じわじわと初版は売れゆき、
増版をかける事もなく、
在庫を抱える事もなく。
ありふれたものだった。

そんないきさつを説明するのに急きょ、
編集者が訪れることがあった。

応接するテーブルが彼女の
料理研究の食材で溢れているところだったり、
肉肉しい匂いがオーブンから立ち込めている
ところだったり。
そんな時に限って
編集者の小堀くんはやってくる。

「知ってますよ、三宅先生。うちでも
レシピ本を数冊扱わせてもらいました。
お忙しい方で今は出版とは無縁で残念ですが」

「小堀さん、
今度はテーブルセットするので
ぜひご招待させてくださいね」

彼女が編集者に軽く愛想をまいていた。
この会食を本気にしてしまう小堀くんとは
知らずに。

「とりあえず定番のローストビーフでしょ。
あと、新鮮な有頭エビが魚屋さんであったからグリルにするわ」

「そんなにはりきらなくても」

「いいえ、
あなたの物語を売ってくださる出版社の方よ、接待しなきゃ」

青果店の店先を彩る
赤や黄やオレンジのパプリカを焼いて、
エビたちを染めた。
プリプリのとうもろこしを丁寧にこした
ポタージュ。
手作りのバケットに鮮魚をあえたカナッペ。
朝から商店街をはしごして吟味し、
帰って早々に彼女は支度して。

手伝うことは何もないと
キッチンから追い払われ、
わたしも時間差で商店街についた。
酒屋でワインとビールをチョイスして、
駅前をのんびり歩いていたところ、
小堀くんと出くわした。
隣には女性を連れていた。

小堀くんの彼女かと尋ねると、
そうではなく同僚だと笑われた。
料理などの書籍を担当している山崎さん
という女性。彼女へのサプライズだった。



転換


彼女の叩くまな板の音で目覚る。
そしてオーブンからの湯気と
その匂いに朝を感じる。

それは朝に似つかわしくないヘビーなかおり、夕飯の支度もしていたみたいだ。
彼女は容器にそれらを詰め、
半分は保冷バッグに
そして残りを冷蔵庫へと片した。

「今日も遅くなるわ、
冷蔵庫に作り置きを入れたから
温めて食べてちょうだい。
パンが切れてたかもしれない……
サラダも食べてね、それと、それと、」

「わかったよ、先生」

「先生に先生なんて呼ばれちゃうと、
くすぐったい」

「大丈夫、気をつけて、いってらっしゃい」

わたしはテーブルに残された朝食に
いれたてのコーヒーを並べる。
彼女はもういない。

このところこういった朝が定番になってきた。
相変わらず何も変わらない日常に
わたしだけは居る。
わたしは次作を完成させ、
さらに次の作品に向き合っていた。
出版には至らないと
小堀くんから諭されていても。

人気作家には程遠い、しがない小説屋だった。
生計は相変わらず
会社からいただくサラリーで、
ときどき彼女からの入金がある。

食器類を片付け、身だしなみを調え、
鞄の中を確認する。

「行ってきます」 

と残された空間に挨拶をしてドアを出る。
一人で朝食を取るのは慣れているが、
もうパン屋でアルバイトしていた頃とは
違っている。

この一年で彼女は三宅先生から独立し、
クラスを持つようになった。
そして先日発売になった彼女のレシピ本が
巷で話題を呼んでいる。
うちには小堀くんが出入りするよりも
山崎さんがよく顔を出すようになった。

山崎さんは
彼女の作ったものに感銘を受けてから、
雑誌のレシピ特集をお願いするようになった。彼女の作るものは味覚はもちろん、
視覚に訴えかけるのだと言って。
渋々だった彼女も、
掲載後、読者の感想を携えた山崎さんに
みるみる引き込まれていった。
もう彼女の料理への感想は
わたしの特権ではなくなった。

仕事を終えて、帰途につく。
商店街のある方へ足を向ける。もう日も暮れ、
店じまいにかかる店舗ばかり。
鮮魚も青果も並べられていた名残が、
空を陳列していた。
シックなブルーのオーニング。
まだそこには焼きたての匂いが漂っていた。
明日の朝食のためなのか、
そこそこに会社帰りの客も居て。

小麦の匂いをめいっぱい吸い込み、
店内を見渡した。
バタールはもう品切れのようで
カンパーニュという丸いパンを二つトレーに
並べた。
レジの前に並べられたラスクも一袋つまんで。今日も清楚なあの子がレジを打つ。

適当に切り分けたカンパーニュを
オーブントースターであぶり、
その間に冷えたビールを流し込む。
チーズとハムを切ってあぶられるパンを待つ。
一旦腹を落ち着けたてから、
彼女の作り置きを温め直した。

考える。

「小さい頃は、お母さんは仕事ばかりで
それに嫉妬していた。
お母さんが家にいるお友達が羨ましかったな」 

といった彼女。今はその仕事に夢中で。

ワインをあけ、彼女の作ったトマトの肉詰めとじゃがいものグラタンを皿にうつしてつつく。色とりどりのサラダを容器から取り出し、
スモークサーモンをのせた。
冷蔵庫の内扉のビネガーの効いた
ドレッシングの小瓶を振って。

彼女の夢は何?
ドアが開く音がした。




彼女は遅くまで
ベッドの中でペンを走らせていた。
ただ今日あったことを記すだけなのに、
優先順位をそらんじていた。
今日もたくさんの刺激を受けたみたいだ。

日記を閉じた瞬間、
瞼を閉じて掛け布団に潜り込んだ。

「今日もいろんな発見だらけ、
パンクしそう……」

日ごとに多くを吸収し、消化してゆく彼女は
今も走り続けている。
眠っている時でさえも。
そんな彼女に夢とは。なんて
愚問でしかなかった。
目の前のことに真摯に、
一所懸命に向き合っている。
ただそれだけで称賛されるべきで。
わたしはそんな彼女の支えとなり
見守ってゆくことだけが許された夢なのだと
得心した。

「明日はすこしゆっくりできるから、
久しぶりにパンでも焼くわ。おやすみなさい」

「ゆっくりするといいよ、
自分を甘やかす事も仕事だからね」


ドアを開けると、
懐かしいパンの匂いが立ち込めていた。

「ただいま、少しはやすめた?」

「お帰りなさい、ええ。
けれどじっとしていられなくて。
パンってね生きてるのよ。
生地をこねるとね、わたしの心を読み取って、
答えをそっと教えてくれるの」

「不思議なことを言い出すね、
修行か何かかい?」

「修行……そうね、
そんなものかもね、ふふふ」

「何か困りごとでも?」

「そうね、
パンよりあなたに相談するべきよね。
調理師の資格ってあったほうがいいと思って」

「調理師ね、学校に通うって事でしょ。
仕事はどうするの。今の忙しさで賄える?」

矢継ぎ早に聞いてしまった。
困惑しながらも彼女はこう言った。

「そうなんだけれど……正直、
今のわたしじゃ、自信がないのね、
何かを学んだり、努力したりするともう少し
胸張って頑張れるかなって」

彼女の心細い一面をみた。

「話してくれてありがとう。
けれど、君は立派にやってるよ。
学ぶことだって教科書からが全てではない
と思うよ。
三宅先生からしっかり学んでるじゃないか、
雑誌の仕事にしたってしかり。」

「自分が何者なのか
見えなくなってきちゃった」

「調理師になったら、解決するのかい? 
パンをこねながらどう思ったの?」

「調理師の学校に行くことに60%ぐらい」

「なるほどね」

しばらくの沈黙ののちに

「自信のなさなのか、焦りなのか、
落ち着いて考えるべきだね。
パンが答えを出してくれるのだったら、
たくさん作ればいい。
しっかり自問して出た答えなら、
心から応援するよ」

流れくる波に押し流されそうになっていたのは
彼女だった。
彼女も人間であり、悩みながら生きていた。
もちろんそうなのだけれど、
そんな人間味をようやく見せてくれたのが
一緒に暮らして5年が経とうとしていた
こんな夜だとは。

「明日は外食にしよう。
調理師さまのお料理をいただくのも
仕事のうちさ。教室もないし明日の夜は
出かけられるだろう?」

仕事が終わり、繁華街の駅前で彼女を待った。
少し着飾った彼女は遅れてやってきた。
予約のできた店へエスコートする。
ほんのり淡い紅を引いた彼女に自信のなさなど
微塵も感じられなかった。
いつものコースをやめてアラカルトで、
彼女が食べたいものを注文する。
素材の味が引き立ち、彩り鮮やかな皿たちを
惜しみない笑顔でほめあった。
ワインとの相性もさすがである。

「こう言った機会をこれからももうけよう。
そして君はゆっくりとパンと相談しなさい」 

ラズベリーのチョコタルトを頬張って
風味を胸いっぱい吸い込む彼女がうなずいた。


巣立ち


忙しい彼女も、
今日はわたしに合わせて時間を作った。

「ネクタイ曲がってない?」

「大丈夫」

彼女の実家の前でひと呼吸ついたあと
インターフォンに指を掛ける。

「はーい」

今日の訪問目的は、
彼女から伝わっていたので、
ご両親そろって迎えられる。
四月もだいぶ過ぎた春の日、
桜はもう緑緑しく葉を携さえていた。

迎えられたテーブルには、
鯛やマグロ、ハマチの刺身。
唐揚げやちらし寿司といった家庭的な料理が
並んでいた。
「まずは、おめでとう、
コックさんになったのね」

母から祝福された彼女はこの春、調理師免許を
取得した。あれから2年、
彼女は時間があるとパンを作りながら
自分の未来を少しずつ描いていた。
二人であちこちまわった料理店も
彼女の願望を奮わせた。

悩んだ末、彼女は教室の仕事を離れ、
昼間はレシピの連載をもち、夜間に調理の学校
とさらに忙しい毎日を取った。
連載は好調で単行本も刊行された。
彼女は売れっ子の料理研究家になっていた。

「このたび、しおりさんが
本場で学びたいとの意向を受け入れまして、
わたしとの同棲を解消する運びになりました。
今まで、
婚姻を前提に過ごしてまいりましたが
この決断は
ふたりでしっかり話し合った結果です。
今まで、お世話になり、
ありがとうございました」

一気にご両親に説明した。
両親は娘の勝手な振る舞いはわたしに
大変迷惑をかけた、と終始頭を下げていた。
彼女が本当に掴みたい将来ができたこと、
それに向かって努力する姿に
感銘を受けている旨、説明をしたものの、
両親はいつまでもすまないの一辺倒だった。
そう、彼女がわたしから巣立つための会食。

それからは慌ただしく日々をこなし、
連休に入った頃、
彼女は家のものを整理しはじめた。
旅に必要なもの、人にあげるもの、
捨てるもの。
ひとつひとつ吟味し梱包されてゆく。
彼女はわたしへは感謝しかないと話した。
だがそれ以上でもないのかもしれない。

もともとセンスの塊だった彼女は、
勉学も熱心で、創作への姿勢も評価され、
本場で修行しないかと誘われた。
レシピを考えること、それを教えることに
長けていた彼女だったけれど、
自分の腕を試したいと通い初めて半年した頃、
フランス行きを相談してきた。
もうわたしだけの彼女ではなかった。
みるみる変化を遂げる彼女は、
かつて家事とアルバイトを両立させ
わたしを支える存在にはもったいなかった。

彼女はわたしを愛していた。
わたしも彼女を愛していた。
けれどその愛は恋愛ではなく
博愛といったたぐいになってしまったのも
いなめない。

段ボールとスーツケースにフランス行きと
付箋がくっついた。

「片道切符よ」 

チケットとパスポートを見つめわたしに
目を配す。

「待っていなくていいんだね」

「あなたはあなたの夢があるじゃない、
わたしがその夢と一緒に暮らせなかったのよ。
あなたには感謝しているけれど、
わたしは未来だけ見ていくわ。
おしまい、さよなら」

そう言って彼女は出て行った。
わたしは残された広い家に佇む。
ダイニングテーブルにはあのバタールが
無造作に置かれていた。
彼女の残した思い出とともに。

また今日もタイプを打つ。
そう、彼女とのストーリーを。




わたしは余した時間に
彼女とのストーリーを振り返り綴る。
夢のような時間。
そのしるしを抱きながらこれからの
未来を描くだろう。

彼女は過去を精算し、
そして未来へと旅立つ。
今までがなかったことのように括るのだろう。

共に過ごした時間だけれど。


                 (了)

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