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日本という国の始まり その6(卑弥呼の朱)

前々回の記事で、低級な話はしないと言ったものの、順を追ってしないと、やはり無理があると思いますので、魏志倭人伝の文中にある”其山有丹”について解説します。前々回の記事中の挿入スライドにある、”・辰砂鉱山疑う余地は無い”の部分です。

三世紀、西晋の官僚・陳寿の書いた魏志倭人伝には「其山有丹(その山丹あり)」という一文が載っています。これは、女王卑弥呼の国(邪馬壹國)には、水銀辰砂鉱山があるというのです。

硫化水銀(HgS)を辰砂という所以は、中国の辰州に硫化水銀が沢山取れたことから名づけられました。水銀大好きの秦の始皇帝はお隣の陝西省の辰砂であったようです。辰砂は古代、金よりも値打ちの高い、赤の顔料として流通しています。物理的には、下に示すように、六方晶系で比重8.2とすこぶる重く、硬度は2です。この比重が重いという点は記憶にとどめておいてください。

辰砂と湖南省(辰州)の位置

では、卑弥呼の辰砂鉱山はどこにあったのでしょう。
三世紀の辰砂鉱山遺跡は、日本広しと雖も、徳島県の加茂谷というところでしか、発見されていません。加茂谷というのは、正式には、阿南市水井町の若杉山です。地図を貼ります。国道55号から右折して南下、那賀川に当たると右折して川沿いに進み、楠根のトンネルを抜けると更に右折して、そこから7km程行くと、大井という村に至ります。この村はずれを左折して、那賀川にかかる橋(水井橋)を渡り、若杉谷川を遡ります。橋から、約1.2km程歩くとお遍路さん用の東屋が建っています。その対岸の杉林(かつてのミカン畑:段々畑)の上が遺跡です。
縁は異なもの粋なもの、実はこの若杉山は、私の友達の所有する山林なのです。(動画で、彼が資料を沢山保管しているところを紹介してあります)

若杉山の位置

昭和の時代、辰砂鉱山が発見され、三世紀と同定されました。当時は大発見として捉えられていたものの、いつしか誰も相手にしなくなりました。しかし、在野の研究家はコツコツと山を歩き、石器を拾い、洞窟を探検して、調査を続けました。

俄かに脚光を浴びるきっかけは、那賀川の洪水により、無堤地区の工事が始まったことによります。若杉山遺跡の目と鼻の先から日本史上最古最大の工場群、加茂宮ノ前遺跡が発見されたのです。

加茂宮ノ前遺跡の位置

更に言えば、この宮ノ前遺跡の対岸の深瀬にも古い遺跡が発見されました。その遺跡は今から7000~8000年前に遡れると学芸員の方に教えていただきました。

宮ノ前の発掘調査の後に研究が進み、市の広報誌にも掲載されるまでになりました。初めて、本格的な学術のメスが入ったのです。すると、遺跡は生活臭が希薄で、辰砂の精製や鉄器の加工などを主に行う家屋であることが判明し、何万点もの考古物が収集されました。

阿南広報2018年11月号

さらに、新聞紙上では、「最古最大」が躍ります。地元紙だけではなく、大手紙にも同様な見出しで取り上げられました。

新聞記事

手前味噌になりますが、講演のたびに、「考古的なエビデンスは後からついてくる。徳島の東部・東南部からは必ず一部上場企業の本社工場が出土する。」と言っておりましたが、早くも発見されたかと、少々驚いています。残るは国会議事堂なのですが、これはなかなか難しいかもしれません。ただし、徳島市国府町の矢野遺跡は規模的には西日本最大級と学芸員も認めておりますので、望みはまだまだ残っています。というのも、徳島市の西側は遺跡だらけであり、おそらく掘れば地下で繋がっている可能性すらあるから、大都会が見えてきます。

加茂宮ノ前遺跡の詳細は学者に譲るとして、水銀辰砂の精製工場が3世紀に存在したことが明らかになりました。若杉山から流れてくる谷と那賀川が合流する村は水井といいます。微粉砕した辰砂交じりの砂をスク作業をしていたことから水井と命名されたのではないかと推測しています。(辰砂は比重が重いので、砂金と同じで、微粉砕しザルに入れ水の流でスク作業をしていたのだと推測)

古墳が作られる頃になると、辰砂が埋葬の折に多量に用いられたようです。最近は、ある程度産地同定のメドがたったようで、含まれる硫黄の同位体比率から推定するプロトコルが南武志(2008年、近畿大学准教授)らによって確立されようとしています。それによれば、どうやら畿内で散見される赤の顔料は徳島産である可能性は高く、北部九州の顔料は大半は中国産であるようです。(詳しくは南氏の文献を参照のこと)


詳しくは、短く端的に動画にまとめてみたので、興味のある方は是非、ご視聴ください。

YouTube「卑弥呼の朱」

ちなみに、畿内に三世紀の辰砂鉱山遺跡はありません。同じく、九州北部にも辰砂鉱山はありません。その時点で、魏志倭人伝を根拠にし、畿内だ!九州だ!と論戦するのは、やめた方が(科学的・論理的に)賢いと思います。

他にも、水井の若杉山には、横坑が沢山あります。これがまた、世紀の発見で、鉱山技術が500年ほど古くなりました。これら知見を俯瞰すると、思った以上に日本の鉱山技術や鉄器加工・精製技術は進んでいたようですね。進んだ技術は大陸からというのを見直す時期にきているのではないでしょうか?

※ 魏志倭人伝を全く無視するのであれば、この限りに非ず。(辰砂の件を無視すれば、奈良説も北部九州説も成り立たないこともないでしょう)でも、学問的に考えると、ちょっと強引な感を否めませんね。





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