見出し画像

【連載】C-POPの歴史 第15回 中国本土'00年代の音楽。「中国」を世界に聴かせる

中国、香港、台湾などで主に制作される中国語(広東語等含む)のポップスをC-POPと呼んでいて(要するにJ-POP、K-POPに対するC-POPです)、その歴史を、1920年代から最新の音楽まで100年の歴史を時代別に紹介する当連載。前回は、主に90年代にそれまでのC-POPを俯瞰したような曲を歌った歌手、サンディ・ラムについて、そして前々回は香港を代表する歌姫でやはり90年代に活躍したフェイ・ウォンについて書きました。

今回は、2000年代(2000〜2009年、一部例外あり)の中国本土の楽曲を取り上げながら、この地域の音楽シーンを俯瞰してみたいと思います。なお、90年代の中国本土については、第9回で紹介しました。

20世紀の間、香港、台湾と比べると少し出遅れていた中国本土のポップスシーン。2000年代はどういう状況かというと、人口の多さと国土の広さゆえか、プレーヤー数は増えた印象ですが、まとまりに欠けるという印象です。簡単に言えば、誰もが知ってるスターが少ない。はっきり言えば選者泣かせであります。ただ、2000年代の中国本土のポップスシーン全体を一つのテーマでくくるなら、「外」への売り出し期間ということになると思います。

言い方を変えると、この時期の中国本土は、音楽における民族的なアイデンティティを昇華する時期だったのかもしれないと思います。どういうことなんでしょう。さっそく曲を紹介していきましょう。


増える音楽、不思議と少ないポップス

他の地域と比べ、経済的発展の出遅れた中国本土ですが、ここにきてついに中国本土にも経済発展の波がやってきます。通常、ポップスシーンにおいて、自国の経済が発展することはプラスを意味します。生活必需品以外の余興にお金を費やす人が増え、その一部はエンタメ産業や音楽に向かうからです。そのことで、音楽で食べていくことが可能な人の数も増えます。

また、中国本土には中国音楽院という名門の音大をはじめ、各地に音楽を専門に学ぶ学校が多数ありました。ですので、クラシックや中国伝統音楽などはとてもクオリティの高い音楽も生まれています。

一方、ポップスに関しては、正直2000年代に入っても古臭いものも多く、他地域と比べると遅れを感じます。たぶん音大出身者にとってはクラシックやジャズや中国伝統音楽こそ正当であり、ポップスを作るということに魅力を感じなかったのかもしれません。さらに日本でいうオリコンや、世界でいうビルボードのような信頼おけるヒットチャートがない状況、そして国土の広い中国において、局所的な流行はあれど、全国的に流行っているという状況は生まれにくかったのかもしれません。海賊版が簡単に作られてしまう状況も影響してると思います。

爱就爱了/陈琳(Chen Lin)(2001年)

陈琳(Chen Lin/チェン・リン)は、重慶市生まれの歌手。重慶市は現在は省から独立した市となっていますが、この頃は四川省の一部でした。ですので彼女は四川省出身ということになります。1970年生まれの彼女は、1993年にはすでにアルバムが150万枚のヒットを記録する売れっ子になります。この曲は2001年の曲。1970年生まれの彼女は31歳になっていて、すでに大人の女という貫禄もあります。

この曲の作曲は自身もミュージシャンとして活躍する傍ら、この時期人気プロデューサーとして名前を馳せた張亜東。時代の寵児となった陈琳(チェン・リン)ですが、2009年に北京の自宅マンションから飛び降り自殺を図ります。私生活上のトラブルが原因のようですが、生きていれば中国本土を代表するシンガーになれたはずなのでただただもったいないです。

Xi Shua Shua 嘻唰唰/The Flowers 花兒樂隊(2005年)

花兒樂隊(The Flowers/ザ・フラワーズ)は、1998年の結成最初はポップパンクを標榜するロックバンドでしたが、レコード会社を変えた2004年以降は、この曲のようなダンスポップや、中国国内で有名なCMソングをカバーしたり、事実上アイドルバンドと呼ぶべき存在になったので、ロックではなくポップスの項目で紹介します。

彼らのポップ路線は成功して、この2005年の嘻唰唰(Xi  Shua Shua)は中国本土、並びに各国の華人、華僑の間でも有名となり、この時期のバンドとしては異例の知名度を手に入れました。彼らの曲を聴くとどの曲も、「あれに似ている」と思わなくもないのですが、まあポップなんて似たり寄ったりとも言えるので、それほど目くじらを立てるほどでもないのかなと個人的には思います。

Super Girl/Super Junior-M(2009年)

さて、2000年代も最後の2009年、中国本土のダンスポップシーンにもこの時期に黒船が上陸しました。Super Junior(スーパー・ジュニア)は、2003年に韓国で結成され、日本でも人気がありました。Super Junior-M(MとはMandarin(=中国の普通話を指す表現)のMを指しています)は、中国本土での活動のために派生したユニット。と言いつつ、メンバーはSuper Junior本体とほぼ共通していて、中国籍のメンバーである韓庚(Hangeng)がリーダーになっている他、一部メンバーの構成も変わっていますが、ほぼそのままです。その後中国と韓国双方での芸能活動の両立の難しさなどでSuper Juniorグループは中国での活動をやめてしまいますが、この時期の中国に突如おしゃれなK-POPが黒船としてやってきたことは、中国本土のダンスポップシーンに与えた影響は計り知れないと思います。

外国から見た中国のカオス的魅力

さて、ここから、今回の主題とも言える「中国という意匠」の表現について考えていきましょう。まずは、「Radio China」という曲を聴いてください。私はとても好きな曲です。

Radio China/China Dub Soundsystem(2008年)

チャイナ・ダブ・サウンドシステムという謎のユニットは、Martin Atkins(マーティン・アトキンス)というイギリス人による覆面ユニット。これまでにアルバム数枚を発表しています。この曲は2008年発表。彼はPublic Image Ltd.(パブリック・イメージ・リミテッド)のドラマーであり、ポストパンクを代表する世界的なミュージシャンであります。

ですので、この曲は、厳密な意味ではC-POPではありません。ただ、この曲は曲中で当時の北京のインディーズシーンで活躍していた地元のバンドを多数客演させているので、一応C-POPの一部であると考えています。

なぜこの曲を取り上げたかというと、これこそ、外国人が考える中国のカオス性、なんだかわからない勢いが詰まっているからと考えられます。このカオス感は、第9回で紹介したファンキー末吉の「亜洲鼓魂」にも通じます。これがよそ者から見た中国なのでしょう。

当時の中国本土は経済的にも長い眠りから覚めて破竹の勢い。優れた工業製品を驚くほど安価で生み成長を続けました。一方で長い歴史を持ち、数々の優れた文化を持つ国でもあります。私たち日本人は中国で生まれた漢字を利用し、その他中国文化の影響を多数受けています。ヨーロッパやアメリカも例外ではありません。世界的なゲームである「トランプ」は実は中国が発祥とされています。世界で飲まれるお茶-Teaの発祥も中国です。そもそも現代では世界の中心と思われる「西側諸国(Western)」という概念は、元はと言えばシルクロードの東にあった中国が「世界の東側の中心」だったから、「西」という概念も生まれました。

この時期、海外からの熱い視線が、謎の国、中国本土に向けられていたということについて、まずは覚えておいてください。

中国という意匠を輸出する

さて、西側から見た、もう一つの世界の中心である中国は一方で、長い鎖国状態で、ポップスをあまり産んできませんでした。当連載で紹介した崔健(第8回参考)や艾敬(第9回参考)などが海外メディアでも報道され、歌詞の内容が考察されたりしましたが、それは世界の人々は中国人は何を考えてるのか知りたかったからだと思います

そんな、世界から注目を集める中国という現象に合わせるように、中国の音楽を海外に輸出していこうと果敢にチャレンジした人たちもいます。代表的なところを見て見ましょう。

自由(Live版)/女子十二楽坊(2003年)

この曲と、女子十二楽坊というグループは日本でもずいぶん売れたので、ご存じの方も多いと思います。彼女たちは日本でバカ売れし、ファーストアルバムは200万枚売れたと言われています。たぶん30代以降であれば一度は聴いたことがある曲ではないでしょうか? 最初に本格的に日本市場に届いた中国本土のポップスと言えるでしょう。このレベルの売れ方は、今のところ最初で最後と言えるかもしれません。

それにしても彼女たちはいったい誰だったのでしょうか? 彼女たちは2001年に、当時の中国全土の音大出身者の中から、プロデューサーの王晓京が、楽器がうまくて容姿端麗という条件で集めたメンバーのようです。この王晓京こそ、中国本土音楽界のゴッドファーザーと呼べるかもしれません。崔健のマネージャーを務めたのち、セカンドアルバムをプロデュースし成功、そして今回冒頭で紹介している陈琳(チェン・リン)のファーストアルバムをプロデュースし、こちらもヒットさせます。そして女子十二楽坊のプロデュースも手がけ、こちらも日本で大ヒットさせるヒットメーカー。彼の歩みは、そのまま80年代〜00年代と続く中国本土ポップ近代史と言えます。

そんな彼が、世界の注目が集まる今のタイミングで中国の伝統音楽を使ってキャッチーな曲を出せば国際的に当たる、とピンときたのかもしれません。その目論見はまんまと成功します。まずは2003年に日本でヒットし、翌年以降は、香港、東南アジア、そして北米でも成功を収めます。

代表曲「自由」は、実はトルコの曲であるというと驚くかもしれません。原曲はŞehnaz Longa(シェヘナーズ・ロンガ)という曲です。Selim Seslerというトルコ人が演奏してるバージョンを紹介します。この曲を中国の民族楽器で弾いたら面白いと思った人(おそらく王晓京?)は相当目利きだと思います。

万物生(Alive)/萨顶顶(Sa Dingding)(2007年)

さて、女子十二楽坊はその結成の経緯からしてある意味アイドルユニットと同じと言いますか、プロデューサーの意思を表現するいわばアクトレス、プレーヤー的側面が強かったように思います。

一方、萨顶顶(Sa Dingding/サ・ディンディン)は名実ともにアーティストです。彼女も2000年にテレビのコンテストで評価されますが、その後2004年にアルバムを一枚発表し、そこから3年にわたる潜伏期間を経て、二枚目以降は主に海外のマーケットで売れることを標榜し、そして完成したのがアルバム「万物生」(2007年)。このアルバムはチベット語、サンスクリット語、中国語に、自分で作ったオリジナルの言語の曲も含む不思議なアルバムでした。紹介しているのはアルバムの代表曲、「万物生」。サンスクリット語で歌われていますが、おそらく西洋のリスナーは何も気にせず中国的意匠だと思いながら聴いたことでしょう。女子十二楽坊の代表曲が実はトルコ製であるのと同様、よりオリエンタル色を強めるためにあえて中国以外の意匠を取り入れているところにも注目です。日本のYMOが、中国の人民服を着て演奏したのにも通じる、「どうせ西洋から見たら東洋なんてどれも同じに見えるだろう」という皮肉を感じます。

天地记(Ha Ha Li Li)/萨顶顶(Sa Dingding)(2010年)

さて、2010年ということで、1年はみ出てしまいましたが、萨顶顶からもう一曲だけ。こちらは中国語で歌われています。テーマは「天」と「地」。世界の人が中国に感じる謎のオリエンタリズムを全力で表現しているMVにも注目です。これは彼女の代表曲で、世界の音楽ファンと中国ファンを魅了しました。彼女は中国のビョークであると言ったら言い過ぎでしょうか。そのぐらいの世界観です。

チベット・ウイグル。少数(?)民族の音楽

さて、中国本土に居住する14億人の実に92%が漢民族と言われており、残りの8%が少数民族です。確かに中国本土から見て、8%という数字は少数民族と言って差し支えないでしょう。でも、単純計算で14億人の8%は1億1200万人となり、これは日本の総人口とたいして変わりません。そう考えると、これだけの人数を少数民族と呼ぶのは少し違和感を覚えるのは私だけでしょうか。

中国本土には、55の民族が住むと言われており、政府が認定しない民族も含めるともっと多いと言われています。多い順からチワン族(1958万人)、ウイグル族(1177万人)、回族(1137万人)です(2011年国勢調査より)。今回は、チベット族とウイグル族の音楽をいくつか紹介します。この二つは民族的独立性が特に高く、その独自性は音楽にも活きています。

美丽的城/天杵乐队(VAJARA)(2007年)

天杵乐队(VAJARA)はチベット初のロックバンドと言われています。美丽的城(和訳:美しい街)というタイトルのこの曲では「ラサ」という言葉が出てくると思いますが、これはチベット自治区の省都であり、チベット民族の首都とも言えるラサの美しさについて歌っています。

VAJARAは1999年に結成され、2003年、2007年にそれぞれアルバムを発表していますが、2022年に突如15年ぶりにニューアルバムが発表され、ファンを驚かせました。

Uyghur Girl/Reshide Dawut(2003年)

さて、中国本土の中でも最も音楽的独自性が高いのがウイグル族です。Rahile Dawutの曲を聴いても分かる通り、どちらかと言えば中国音楽よりも中央アジアやインドの音楽により近いような気もします。

彼女はウルムチ生まれのウイグル族ですが、現在中国の地方政府によって、国家分裂罪として当局に拘束されている情報があります。この項目は音楽を取り上げる連載ですが、ただただ、彼女のような優れたシンガーのライブや新譜が聴けないのは残念です。

Yarbagi/Arzigul Tursun(2006年)

Arzigul Tursunは、ウイグルのコンピレーションアルバムに含まれていたのでウイグル民族に違いないと思いますが、中国国内に住むのか、別の地域に居住しているのかはよくわかりません。このアーティストに関しては情報がほとんどありませんが、とにかくこんな不思議な音楽も生まれています。

このように中国本土は、漢民族以外の少数民族からもいい曲が登場していて、それは北京で流行ってる音楽とはまったく異なる雰囲気を持っていますした。

中国本土はロック大国!

さて最後は相変わらず元気な北京発のロックバンドについて。

90年代の中国本土(第9回)で最も盛り上がっていた音楽はロックですが、この時代も引き続きロックは盛り上がってます。しかも、崔健(第8回)や黒豹(第9回)ではない、新世代のバンドが続々と登場しました。その数は台湾や香港の比ではありません。詳しいことが知りたい人は膨大な中国ロックのデータベースを紹介してる日本人のサイト(Chinese Rock Database)があるのでそこを紹介します。

以下に取り上げるのは、その中から私が好みの曲です。どれも勢いがあって、ライブを見れたらさぞかし楽しかっただろうなと思うものを選んでみました。最高な5組を紹介したいと思います。

新的恋爱/新裤子乐队(New Pants)(1998年)

こちらは1998年の曲なので本来は90年代の項目で紹介すべきだったかもしれません。新裤子乐队(New Pants)のデビューアルバムより。彼らはこの当時世界的に盛り上がっていたポップパンクバンド(聴きやすい(ポップでメロディアスな)パンクバンド)を標榜するバンド。息の長い活動を続けていて、現在も新譜を定期的に出している長寿バンドです。のちに大胆にエレクトロサウンドを取り入れたり進化していくのですが、この時点ですでにその兆候はあります。現在でも活動を続ける活動期間の長さや、その功績から、中国本土を代表するロックバンドの一つと言えると思います。

A Wishful Way/跳房子(Hopscotch)(2002年)

こちらは武漢市(中国の中央部の都市。この都市は2020年にコロナウイルスの発祥地というやや不名誉な出来事で世界的に知られるようになります)出身で、北京で活躍したバンド跳房子(Hopscotch)。女性ヴォーカルの田原(Tian Yuan)の傷つきやすそうな内的世界が繰り広げられる音楽が特徴。この曲は全編英語で歌われています。2005年ごろまで活動していたようですが、その後自然消滅し、田原はソロ活動を始めます。その後の田原は、音楽活動はもちろん、小説を発表したり、映画監督に挑戦したりと独自の活動を続けています。才能が爆発してるタイプ。

この曲は彼女の表現活動の戦い方のような内容が歌われています。

雲/卡奇社(Carrchy)(2008年)

卡奇社(Carrchy)は、青島(チンタオ。チンタオビールで有名な港町)で生まれた二人組のバンド。この時期の中国本土の中では抜群に垢抜けたサウンドを展開しているグループの一つです。現在アジア中で密かに流行中の日本のシティポップリバイバルにも通ずる雰囲気です。

さて、卡奇社がC-POPの歴史上重要なのは、2007年には台湾の魏如萱(Waa Wei)に世界末日的某個角落という曲を提供するから。自分たちもワー・ウェイと一緒にセルフカバーしていますが、こちらの曲も大変素晴らしいです。Waa Wei版については、後ほど台湾の00年代の項目で紹介しますのであえてここでは紹介しません。お楽しみに。

Don't you move/宠物同谋(Pet Conspiracy)(2009年)

宠物同谋(Pet Conspiracy)は、男女混成のエレクトロニカロックバンド。この連載ではCDなどのスタジオ音源版が残っている場合はなるべくそちらを紹介するようにしていますが、このバンドに関してはライブの方がずっといいので、中国国外でのライブ映像を紹介します。「私のそばから動かないで」というメッセージを英語で鼓動が早くなりそうなダンサブルなサウンドに合わせて熱唱する姿は必見。

なんか、イケてる男女が絡み合う非常に破廉恥なステージアクトですが、演奏もヴォーカルもめちゃくちゃかっこいい。このあとメンバーチェンジを繰り返すことになるのですが、このメンバーのライブを見てみたかったなと思います。

痴人/痴人乐队(Chiren)(2009年)

ここまでみてきた通り、非常にバラエティに富んだ音楽があった中国ロックシーンでも、異彩を放つのが痴人乐队(Chiren)です。彼らはもともとジャズバンドだったようですが、その後は中国の伝統音楽やフォークにロックを加えたようなスタイルとなりました。この曲はそんな彼らの代表曲の一つです。

彼ら以外の、上の4つのバンドは、クオリティは高いものの、世界のどこか他の国にもいそうなバンドと言えるかもしれません。しかし、痴人乐队は、少なくても世界でも中国本土にしかないバンドと言えるかもしれません。香港のBeyond(第12回参考)など中国っぽさを取り入れたロックバンドもいましたが、国土が広いからなのかスケールがより広がった音楽のように感じます。むしろ私はこの意図された東洋性、オリエンタリズムやスケールの大きさから、民族音楽に接近した時期の坂本龍一とかの音楽と通じるようにも感じましたがいかがでしょうか?

まとめ

こうして振り返ってみると、この時期の中国(本土)の音楽シーンは、中国らしさのようなものを曲にどう組み入れるか。それを海外のリスナーにどう聴いてもらうかということを考えているように思います。萨顶顶(サ・ディンディン)、女子十二楽坊、痴人乐队などの曲に典型的ですが。一方で、国内向けのポップス(ロックではなく)はまだまだ希少だったという印象です。

中国本土のポップスシーンが真価を見せるのは、次の10年代から。世界最大の人口(2010年代当時)を持つ国家からどんな才能が出てくるのでしょうか。乞うご期待です。

次回予告

次回は香港発の2000年代の音楽を紹介します。キーワードはメジャーとマイナー、中国と香港。

バックナンバー

1927年から2025年まで、約100年のC-POPの歴史を紹介する連載。15回目にしてようやく21世紀に突入しました。20世紀の歴史は以下で読めます。


いいなと思ったら応援しよう!