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【連載】C-POPの歴史 第4回 その頃、台湾と中華人民共和国のポップスは? 1930〜70年代の台湾・中国

さて、前回までの3回分では、1920年代から1970年代までのC-POPの歴史を第1回では上海、2回目、3回目では香港を舞台に紹介してきました。戦前までは上海、戦後は香港がC-POPの中心地だったからです。でも、今の感覚ですとC-POPと言えば台湾発のアーティストが目立ちますよね? 残念ながらこの時代の台湾は、香港から見ると周辺の地域という感じで、C-POPの中心地ではありませんでした。それでも、この時代の台湾に何もポップスがなかったわけではありません。今回は、戦後台湾のポップスを中心に紹介したいと思います。そして、数は少ないですが、当時の中華人民共和国のポップスについてもこの項目で取り上げたいと思います。

中華人民共和国のポップス

さて、台湾のポップスの前に軽く中華人民共和国の当時のC-POPについても触れていきましょう。第1回でC-POPの源流が上海にあったことを紹介しました。しかし、戦後、中国共産党の支配下となった、上海を含む中国大陸(これは、台湾と香港・マカオを除いた中国本土という意味です)は、当時の共産党の意向で革命家と呼ばれる政府を称える歌や、共産党のプロパガンダとなるような曲が中心となり、真の意味でのポップスは数少なくなってしまいました。しかし、戦前から当時から人々の間で歌われていた民謡の類は祖国を愛する歌とされ、弾圧の対象とはなりませんでした。茉莉花(Jasmine)はそのうちの一つです。

茉莉花/陈红红、宋桂英、凯秋霞、李晓琳(195?年)

こちらは現在の江蘇省のあたりで生まれた作者不明の民謡で、広く中国人に歌われる曲です。素朴な魅力があると言えなくもありません。発表年は不明ですが、この動画をアップした人によると1957年の曲だそうです。

しかしこのような素朴なポップスの種も摘み取られてしまうような事件が起きます。特に1966年〜1976年まで行われた文化大革命は致命的で、この時期、中華人民共和国では資本主義的と見做されたポップスは弾圧の対象となりました。おそるおそるポップスが出てきたのは文革後のことです。

bilibili(中国版のYoutube)にアップされた祝酒歌という曲を聞いてください。

祝酒歌/苏凤娟(1978年)

この曲の作詞家の韩伟はまさに、文革の終わりを祝う曲として書かれたと百度では紹介されています。この間、実に20年の月日が流れていることに驚きです。ここで注目なのは、この時期の歌がオペラっぽい歌手が歌い、歌手もピアノ中心の西洋的なアレンジとなっていることです。これはおそらく、当時の政府がクラシック音楽を禁じなかったことと関係があるのではないかと思っています。また、当時の中華人民共和国はいわゆる「東側諸国」で、日本とは目立った国交がありませんでしたが、一方で東側であるソ連とは仲良く、人材の交流もあったようです。ですのでおそらくオペラや西洋のクラシックが垣間見れるのは、ソ連の影響があったようです。

どちらにしても、1970年代までの中華人民共和国は、ほとんどポップスを生産していなかったようです。

台湾の特殊な歴史的背景

さて、いよいよ今回のメインテーマとなる、1970年代までの台湾のポップスの紹介に入ります。その前にまずは台湾という国(国連や日本政府としては公式には台湾を国ではなく「地域」と定義してますが、実情は普通選挙も行われる民主国家です)の成り立ちについても簡単に触れたいと思います。

その前に理解していただきたいのは、台湾には、元々台湾の人々が話していた言語である台湾語と、のちにこの地を支配する中華民国によって広められた中国語(普通話、マンダリンとも)があり、二つは区別される言語だということです。ただし現在では、中国語が圧倒的で、台湾語は日本人にとっての方言のような存在に落ち着いています。

元々独立した地域だった台湾は、17世紀ごろに当時の中国政府、清朝によって支配され、漢民族がやってきました。このとき、台湾は福建省の一部とされたので、福建省の文化が海の向こうから入ってきます。台湾の料理も福建省の料理がベースになっていると言われています。このように、現在の台湾の文化的下地は福建にあると言えそうです。

その後1895年に日清戦争に清が敗れたことをきっかけに、台湾は日本領となります。この時期には日本文化が多数流れ込みました。例えば台湾人はお刺身を食べたり温泉に浸かる文化がありますが、これは日本統治時に根付いた文化だと言われています。この時期に台湾のポップスの歴史が始まりました。それでは台湾最古のポップスとされてる曲をお聴きください。

桃花泣血記/純純(1932年)

こちらは台湾語で作られた最初のポップスと呼ばれている「桃花泣血記」という曲です。この曲は、上海で製作された同名の映画を台湾で公開するにあたり、台湾語の曲を作ってしまおうと企画されてできた曲です。年代的には第1回で紹介された「時代曲」の時代に相当します。

これ以降、1933年から1936年あたりまで、台湾語の歌謡曲は最盛期を迎えます。しかし、1931年の満州事変から徐々に当時の統治国である日本は太平洋戦争、第二次世界大戦と戦争の季節へと向かっていき、1941年には戦時体制にはいったため、台湾語による流行歌は作られなくなってしまいます。

月夜愁/純純(1933年)

この頃には上海で流行していた時代曲をベースに、様々な曲が台湾でも作られていますが、どれも恋愛に関する歌が多く、そして失恋や悲しい気持ち、待ちぼうけなどをテーマにした曲が多いのが特徴です。

ひょっとすると彼女たちは、戦争に行って帰ってこない彼氏への気持ちを暗に表現していたのかもしれません。

補破網/鳳飛飛(1945年)

これは1945年の曲なので、日本の敗戦が決定したあとの曲です。補破網(和訳:「破れた網を補って」)は、その名の通り戦争の爪痕を象徴するような歌だと思いますので取り上げました。本来は漁の網の歌ですが、戦争で傷を負った台湾そのものを歌った曲だと想像することは容易いです。この曲も台湾語で歌われています。このことから、戦前、そして内紛前は台湾語の楽曲が数多くあったことがわかります。そして、感覚的な話ですが、この曲は中国の時代曲の影響も感じますが、どことなく日本の古い歌や演歌にも通じる感じがしませんか? ともあれ、戦争で傷を負った台湾は日本の統治を離れ、中華民国に返還されます。

世界大戦は終わったものの・・・

第二次世界大戦は日本の敗戦に終わり、1945年には台湾は中国に返還されました。このとき、台湾は国民党が主導する中華民国に返還されます。中華民国は日本やアメリカと同じく、基本的には民主主義を標榜する国でした。しかし、中国国内では、中国共産党によるクーデターが発生し、内紛状態に陥ります。

小さな台湾島を含む当時の中国は広大な領土を抱えています。そんななか、主に共産党を支持したのは中国大陸の貧しい農村の人々でした。最初は国民党が優勢だった内紛ですが、ソ連の支援もあり、やがて農民に支持された共産党が支配的になります。こうして国民党は共産党の支配が及ばなかった台湾島に逃げることになります。一方、共産党から見ると、中国のほとんどの地域を支配することができたものの、台湾島とその周辺だけは取り逃がした、とも言えるでしょう。ここから、長い長い「二つの中国」の時代に入ります。

国民党が支配していた中華民国を共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国を設立、台湾島に追われた国民党員は再び以前のように中華民国を名乗りました。私たちが普段通称で「台湾」と呼ぶとき、台湾島ではなく、台湾という国(地域)をイメージしていますよね。台湾の国家としての正式名称は中華民国ですが、このような経緯を知ると、台湾=中華民国と単純に言い切れないことがわかります。なぜなら、台湾はあくまで台湾島、あるいは周辺の島も加えた台湾省を意味する言葉であるのに対し、中華民国とは歴史的な経緯を踏まえると大陸も含んだ大きな国家を意味するからです。

さて、共産党と国民党の戦いは休戦扱いとなりお互いに存続しますが、これが中華人民共和国と中華民国の現在にいたる歴史的な認識です。また、この複雑な経緯は、台湾内に、本省人(1945年以前に台湾に移り住んだ人々とその子孫)と外省人(1945年以降に台湾の外からやってきた人々。主に中華民国の党員とその家族、子孫)という対立も生むようにもなります。

この関係は少しずつ風化されつつもありますが、基本的には2024年現在も変わっていないと言えるでしょう。では、戦後、そして内紛後の台湾のポップスの歩みを見ていきましょう。

綠島小夜曲/紫薇(Zi Wei)(1958年)

さて、混乱期が終わったあと、国民党の政府は台湾の統治を進めるなかで、台湾語の使用を禁止します。以降、台湾のポップスは基本的には中国語(普通話)で歌われます。

台湾のポップスの歴史の起点はどこだったのか、難しいところですが、紫薇の『綠島小夜曲』は間違いなくはっきりと、台湾の初期のヒット曲と言えるでしょう。この曲で歌われている綠島(緑の島)とは、台湾島の南東部に実在する小さな島で、かつて日本統治時代は政治犯を収容する場所だったようです。

この曲ができた経緯などは、中国語で詳しい記事が出ています。もし曲のことがもっと知りたければ、以下の記事を読んでみてください。

(外部リンク)

海上彩虹/湯蘭花(Yulunana Tanivu)(1969年)

1960年代に入ると台湾でもテレビ放送が始まります。当時は日本の歌謡曲を翻訳されたものなどが多かったようですが、上の曲なんかは台湾オリジナルの楽曲。作詞、作曲でクレジットされている曾仲影は、1922年に上海に生まれ、本籍は福建省アモイ、そして1946年に台湾にやってくる典型的な外省人です。美しいメロディの根底には、上海で流れていた時代曲の記憶があるのでしょう。

你我的家/劉家昌、王虹(197?年)

これは当時の台湾ポップスの中でも、とりわけ私が好きな曲です。女性歌手、王虹と、男性歌手の劉家昌のデュエットですが、まるでお風呂の中で聞いてるようにリバーブ(Reverb)が効いていて、天国にいるような気持ちにさせてくれるからです。

でも単に好き嫌いでこの曲を載せたんじゃありません。この曲はさほどヒットした形跡はないのですが(発表年すらあやふやです。)、2つの意味で重要な曲です。一つは、この曲は歌手の劉家昌(Steven Liu)自身によって作詞、作曲されたということです。つまり、劉家昌(Steven Liu)こそ台湾のシンガーソングライターの先駆けと言えそうです。彼の曲調は歌謡曲に近いですが、自作曲をやろうというシンガーソングライターのムーブメントはフォークソングの世界で顕著で、彼はその流れを先取りした異彩と言えそうです。

もう一つ、より重要なのは、女性歌手の王虹は、中華人民共和国に在住する歌手だということです。つまり、この男女のデュエットは、中国と台湾のデュエットでもあったのです。そして曲のタイトルは「你我的家」(あなたとわたしの家)です。

被遺忘的時光/蔡琴(Tsai Chin)(1979年)

蔡琴(Tsai Chin)は、当時のフォークシーンを代表する女性歌手の1人でした。この曲は自作自演ではありませんが、温かみを帯びた歌い方が印象的で、心にずしーんとくるものがあります。この項目では、1930年代から1970年代までの台湾の音楽シーンをまとめて一つの記事で紹介しようという暴挙に出ていますが、「走馬灯」という比喩がよく似合う歌でした。

しかし総じて1970年代までの台湾はポップス史的には冬の時代だったと言わざるを得ません。上海で聴いたことあるような曲のコピーが多く、香港のようなオリジナルな文化はこの地ではまだ成立していなかったと言えるかもしれません。私が思うに台湾のポップスシーンが独自の文化として開花するのは1989年まで待たなくてはいけません。

ただ、そんな冬の時代にも、いやだからこそ、例外的に誰よりも大きく咲く一輪の花がありました。彼女の名前はテレサ・テン。次回は台湾が産んだ世界的な歌手、テレサ・テンの楽曲を紹介したいと思います。

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