#134 その不安、妄想です
仕事をしているときも、友達といるときも、一人でいるときも、
僕は、常に恐怖心や不安というものを抱いている。
ああなったらどうしよう。
こうなったらどうしよう。
自己啓発本とか、ポジティブなポストをするXのアカウントとかには、「不安に思っていることは大概起きない」と書かれている。
僕も、その通りだと思う。
不安や恐怖に思っていることは、大概起きない。
なぜなら、今感じている不安や恐怖は、ただの妄想に過ぎないからだ。
今年の7月に芥川賞を受賞した作品「バリ山行」。
過酷な登山を行う人間たちを読みながら、改めてそう思ったのだった。
バリ山行はこんな話
建物の外装修繕会社に転職して二年。
波多は、社内で若干浮いてきたことへの危機感を抱き始めていた。
そしてその原因も、自らが積極的に社内の人間と交流していなかったからだということもわかっていた。
そこでその反省も兼ねて、社内の登山部に入ることになった。
仕事も登山部もそこそこに勤しんでいたある日。
その登山部に同行したいという一人の社員がいた。
妻鹿というその社員は別の部署の人間だったのだが、社内でかなり浮いている存在であるということは知っていた。
そして、彼が普通の登山ではなく、道のない道を行く登山——バリエーション山行、略してバリ山行をしていることを知るのである。
極めて危険な登山をする彼に対し、怒りを露にする登山部の一部。
彼の登場により登山部の雲行きが怪しくなっていく。
それと比例するかのように、会社の業績も不安定になっていく。
会社に行っても不安感が募っていく波多。
その不安を解消できるのが、もしかしたらバリ山行なのではないか。
業績不振と、それに伴う不安が高くなるごとに、彼は妻鹿のバリ山行に惹かれていくのであった。
不安と恐怖は偽物だらけ
本作の主人公である波多は、サラリーマンとして、一児の父として、さまざまな不安を抱いて日々を過ごしている。
周りから浮いている。仕事に支障があったらどうしよう。
会社が危なくなっている。家族を守れなくなったらどうしよう。
これは社会人ならではであるが、学生に置き換えるとこうだ。
周りから浮いている。仲間外れになったらどうしよう。
勉強がうまくいかない。志望校に行けなかったらどうしよう。親や先生に怒られたらどうしよう。
そんな不安だ。
つまり年齢にかかわらず、波多が抱く不安というのはごく普通のもの。
学生だって社会人だって誰だって抱いたことのある不安や恐怖である。
けれど、周りの誰かを見て、こう思ったことはないだろうか。
「この人、不安に思わないのかな?」と。
不安に思わない人。悩みを持たない人。
そういう人も一定数存在する。
本作においては、妻鹿という社員がまさにそういう存在だった。
波多との会話の中で、妻鹿が放った言葉がとても印象的だった。
とある理由で、彼は会社や生活に対して不安や恐怖を感じないのであった。
いや、少し書き直そう。
僕らが普段抱えやすい不安や恐怖というのが、まぼろしであり、偽物であることを妻鹿は理解しているのだ。
本書には書かれていないけれど、僕はこうも言い直すことができると思う。
不安や恐怖というのは、たいがい妄想なのではないかと。
妄想と関係を断つ
ああなったらどうしよう。
こうなったらどうしよう。
そんな恐怖や不安というのは、妻鹿の言う通り予測にすぎない。
まぼろしであり、偽物であり、妄想にすぎないのである。
なぜなら、目の前で実際に起きたことではないからだ。
とはいえ、僕はかなり心配性な性格だと自覚している。
妄想だとわかっていても、どうしても不安や恐怖に駆られてしまうこともたくさんある。毎日ある。
例えば、noteにおいてもある。
ある日突然、誰も自分の文章を読んでくれなくなったらどうしよう、とか。
ネガティブなコメントが来たらどうしよう、とか。
いかにそれを妄想だと認めて、そこを断ち切ることができるか。
これからの人生を楽しく生きるための、大きな課題だなと本書を読みながら感じるのであった。
余談
とはいえ、車や自転車を運転しているときなどは、そういった不安や恐怖というのが役に立つこともありますよね。
「かもしれない運転」とよく言いますが、それだって妻鹿のいう予測にすぎません。
ですが、そのおかげで助かることもたくさんあります。
なので、予測・まぼろし・妄想も、使いどころがあると言えるのかもしれません。