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#146 今、コロナ禍を振り返ると

直木賞受賞作「ツミデミック」を読んだ。
本作は、6つの短編連作集。
全ての話に共通するのはコロナ禍であること、そして何かしらの犯罪が絡んでいるということである。

閉塞感や人々の不安が漂っていたあの頃を本作から感じる。
ソーシャルディスタンスや不要不急の外出への呼びかけ。
人混みが苦手な僕にとって、荒んだコロナ禍でもこれらについては悪くない試みだったよなと思うこともある。
とはいえ、あんな状況は二度とあってほしくない。

あれからたった4年しか経っていないけれど、「ツミデミック」を読んで、今一度コロナ禍を振り返ることができたのだった。

ツミデミックに収録されたのはこんな話

違う羽の鳥

居酒屋の客引きバイトをしている優斗。
雑踏の中、無数の顔を眺めながらバイトをしていた彼は、突如女から話しかけられた。
その女は、学生時代に死んだ同級生と同姓同名だった。
女の語る話が、優斗の苦い学生時代の記憶を呼び起こす。

ロマンス☆

コロナによって、百合は夫・雄大との衝突が多くなっていた。
彼は美容師で、コロナによって苦境に立たされていたからだ。
夫への苛立ちを覚える中、彼女にも楽しみがあった。
宅配サービスでやってきた端正な顔立ちをした宅配員に惚れこんだのだ。
もう一度あの宅配員に一目見たい。
そう思い、百合は宅配サービスにのめりこんでいく。

憐光

は15年前に死んでいた。
時々忘れそうになりながらも、幽霊として街を彷徨っていると、親友のつばさと担任の杉田先生が共に出かけているのを発見した。
彼らの車に唯も乗り込むと、行き着いた先は、唯の実家だった。
まさか17年住んだ実家から、親友と担任の思いもよらぬ真実を知ることになるとは、唯は到底想像していなかった。

特別縁故者

コロナによって調理師の仕事を失った恭一は、仕事を見つけなくてはと思いつつも、日々自堕落な生活を送っていた。
ある日、息子・しゅんが遊びから帰ってくると、近所に住む老人からもらったものを差し出してきた。
それは、聖徳太子の描かれていた一万円札だった。
お詫びとお礼に恭一は、澄まし汁を作って老人宅を訪ねてからというもの、恭一と老人の間に絆が生まれたように見えたのだが。

祝福の歌

達郎が夜勤前にいつものように義母の世話をしに行こうとすると、娘の菜花なのかが一緒に行きたいと言い出した。
高校生の娘は、妊娠している。産ませたくないという母親に対抗するため、義母を味方に取り入れたいのだろう。
いつものように義母のマンションを訪れると、隣人と目が合った。その隣人から感じた言葉にならない恐怖心に、達郎は苦しめられることになる。

さざなみドライブ

よく晴れた土曜日にネット上で知り合った5人が落ち合った。
年齢も属性も全く違う6人は、企画の主催者である「動物園の冬」と名乗る中年男性の車に乗り込んだ。
お互いのハンドルネームの由来を話しながら、賑やかに走っていく。
自殺するために、車は走っていく。

コロナ禍特有の「謎の攻撃」

先に述べた通り、本作に収録されている6作の短編は、コロナ禍と正面から向き合って書かれた作品である。

コロナ禍に苦しむ人々の心情や苦境を丹念に描かれているが、中でも「さざなみドライブ」は特に明白に人々の苦悩が感じられた。
ネット上で落ち合った6人は、自殺志願者である。
そして自殺願望が生まれてしまったきっかけもまたコロナ禍だったのだ。

6人がなぜ自殺したいのかを個々に告白するシーンがあるのだが、それがまさしくコロナ禍における閉塞感を思い出させてくれる。

緊急事態宣言の最中に飲み会に参加したことがネット上の大炎上に繫がり何もかもが嫌になった俳優。
近所の人や親せきに、品薄でマスクや消毒液を譲れないだけで病原菌扱いされた元看護師。
この二人の自殺願望理由から思い出した。
コロナ禍には、あの時期独特の「謎の攻撃」があったなということを。

マスクをしていない人に対する白い目
政府の対応に対する過剰なまでの攻撃的なSNSの言葉(致し方ない部分もあるけれど)。
品薄だったり、開店時間が短いことによるお店へのクレーム

未曾有の感染症だった。
だからとてつもない不安感もあったし、閉塞感もあった。
けれど、今思えば、あんなに攻撃的になる必要はあったのだろうか。

攻撃への欲が生まれるとき、人は想像力が欠けているのだと思う。
マスクをしていないのは、マスクができない体質なのかもしれない。
開店時間が短いのは、店員がコロナにより人数不足なのかもしれない。

目の前で起こる事象には何かしらの理由がある。
しかし、コロナ禍において、それらを考える余裕がなくなったこともあり、人を攻撃する場面が増えてしまっていたように思うのだ。

いかなる状況においても、心を落ち着かせることを忘れてはならない。
心の余裕をなくしてはならない。
少なくとも、誰かを攻撃したところで何も生まれない。

僕が、コロナ禍で得たのはこういった教訓である。

攻撃のない世の中になることを祈りたい

図書館司書にとっても、コロナは大きな影響があった。
本の消毒をしなければならなかったり、マスク着用が必須だったり。
もちろんスタッフ間のソーシャルディスタンスにも気を配った。
閉館していた期間もあったから、図書館にも独特の閉塞感が漂っていたのを今でもよく思い出せる。

そして何より、我々図書館司書もコロナ禍において攻撃の対象だった。
僕も何度か言われたことがある。

なんで中に入れないの? まだ開かないの?
俺たちが払っている給料で働いているんだろ? ちゃんと働けよ!

これらはコロナ禍で、本棚に入れない状態で開館していたときに実際に言われた利用者からの言葉だ。

怒りを通り越して、僕は悲しかった。
僕ら司書は、感染リスクがありながらも電車で通勤して働いていたのだ。
なのに、どうして攻撃されないといけないのだろう?
どうしてそんな乱暴な言葉を言えるのだろう?

「さざなみドライブ」で描かれていたように、攻撃的な言葉は、時として人の命を脅かすほどの刃物なのだ。

コロナ禍に限らずだが、あんな閉塞感のある世の中に戻ってほしくない。
何より攻撃のない世界になることを、僕は常に祈っている。



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立竹落花
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