基礎トレと価値−生きるための心理学・アドラー心理学の凄さ|基礎トレとしての瞑想|仏教
【基礎トレと価値】アドラー心理学/仏教/瞑想
今、今、今、選択できること。
アドラー心理学の凄さ。
言い訳ができなくなる。
他者のせいにも、過去のせいにもできない。
しなくていい。
一瞬一瞬全部でなくても。
つっこけたりしながらでも。
カミサマ・ホトケサマじゃなくて、ヒトらしいヒトだから。
名越さんが「仏教」というところ、
それは、「瞑想」でもある。
ただ、瞑想(瞑想トレーニング)は、「価値(思想)」を持たない。
「仏教」や「アドラー心理学」は「価値(思想)」を持つ。
瞑想は、「価値(思想)」は持たない。
ここが誤解されやすいところだとも思う。
天使も、ハートも、世界平和もない、と私は言うけれど、それは好まれないかもしれない。
でも、だから、とても救いがある。と思う。
「価値(思想)」を持たないから、あらゆる「価値」を持つ人でも、ベースとして行える。勧められる。
たいせつなことだと思うけれど、
たかが瞑想(瞑想トレーニング)なので、
そのことで苦行したり、何か理想の「瞑想」から引き算したりもしなくていい。
そんなことを、私はむかし誤解していたと思うので、同じような人がいたら(いるなあ、たくさん)、ううん、と伝えたいと思う。
一瞬一瞬全部に気づいて見届けたりはできなくても、(10分おきにでも)だいぶんマシにはなれる。
「ジャッジメント」を離れることも(全部でなくても)基礎トレにはなる。
お悟りやら、無念無想やらにはなるのではなくて、
感情表現豊かだったり、アップダウンもあったりの、カミサマ・ホトケサマではない人間のまま(もっと人間ぽく)、
みもふたもない今、今、にレスポンスできる(ことが多く)ようになる基礎トレにはなる。
遊べない人だったら、遊べるようにもなるかな。
いわゆる○○瞑想というものでなくても、さまざまなことで基礎トレができている人たちもいる。と思う。
そうでない人には(私もそうだけれど)○○瞑想のいずれかはいい基礎トレだし、それらのなかではOSHOのデザインした○○瞑想たちは勧められると私は思う(ので瞑想会をしたりしている)。
ただ、基礎トレだけでは、人の世でまっとうに、正気で、生きるのには足りない。と思う。
何らかの「価値(思想)」が要る。のだと思う。
アドラー心理学には「価値(思想)」がある。
それだけで、少なくとも対人関係にかかわる限り、まっとうに生きられるだけの「価値(思想)」なのではないだろうか。
「仏教」にも「価値(思想)」がある。
(ここには敢えて触れない)(が、私はたいせつに思う)
あるいは、そんなカタチをとらなくても、マクシム(自律・格率?)を持って生きている人もいる。
基礎トレだけでは危うい。まっとうに生きられない。
だけれども、基礎トレはたいせつで、基礎トレと分かっていれば、苦行にしないで、美化もしないで、過大な期待もしないで、軽やかに楽しんで、ぼちぼちつきあっていても、だいぶんマシに生きられる。と思う。
ただし、これが「世間にいて瞑想する」ことであって、「世間ズレした瞑想をする」こととは違うところだ。と思う。
このへん、またちょっと熱くなってしまうのだけれど、還暦だから許して😉
今日は、OSHOヴィパサナ瞑想。
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むかしむかし名越先生(Sw. Gopal)からも「アドラー心理学基礎講座」を教わりました。動画は、期間限定公開のようなので消えていたらごめんなさい。