言葉にする癒し方。
女衒。
昨日、女衒という言葉を知りました。
ぜげん、と読むそうです。
言葉にすることがすべてではないと
分かりながらも、
生命が輝く煌めきを
どうしても守りたい。
それだけはどうしても譲れないのだ。
こんにちは、にじです🌱
昔の私は、言葉にならないことを
言語化しようと必死でした。
それは、
「暴かれないと結局変わらないのではないか」
と思っていたからです。
言葉にして伝えることで、
受け取れる人もいるし、
言葉にしないと伝わらない場合もある。
けれど、最近の私は、
「時と場合による」
という戦法を覚えました。
ある人には、言葉にすることが
必要かもしれないけれど、
ある人には、言葉がなくても
伝わるかもしれない。
公の場や不特定多数の人たちが見れる場と
限られた特定の人たちとの場。
自分が今どちらに立っていて、
どんな人に言葉を投げかけているのか。
今どういう時代なのか。
私が今まで出会い、
「この人は大人だな」
と思う人たちは、
みな、時と場合を
よく見極めていたように思います。
私はまだまだで、
対面にしろ画面越しにしろ
人と関わる時に、
うまく切り替えられない時もあるけれど、
昔よりは、ほんの少しだけ
周りが見えるように
なってきたかな、と思います。
風の時代と言われる「いま」。
今はどんな時代なのか。
今この時代に、
私は何を望んでいるのか。
自分の中のわたし。
体を持った私が産まれるよりも
ずっと前からわたしである
存在に
そっと耳を傾けて
その声を聴いてみたい。
ここまで書いて、投稿しようと読み返して、
ふと、留まりました。
「言葉にすることで、
癒されることもある」
「混迷しているようで、
デトックスに向かっている」
そんなことを思ったからです。
学生時代の恩師を通して、
「全てが語られる必要もない」
という言葉に触れたとき、
私は自分の手に余る
ままならない「爆弾」を抱えていて、
「何を言ってるんだ!」
「暴かれなきゃ変わらない!」
と内心反抗していました。
色々な過程を経た今なら、
その言葉の意味も少し分かりますが、
当時の私には分かりませんでした。
ただただ自分の内にある爆弾が
爆発して、自分が壊されないように
必死で、
必死な私は、
抱える爆弾を説明できる
言葉を探していました。
世の中で言われていること。
これまでの蓄積。
専門家の言葉。
話すことで出てくる自分の言葉。
自分の言葉に出会い流れる涙。
そこには、
言葉にすることで癒された
私が、確かにいました。
その言葉は、全てを
みんなに顕にする必要は
ないのかもしれないな、と思います。
だけど、私がこの記事を書くことで、
読んでくださった皆さんに
お伝えしたいのは、
私は、言葉にすることで
癒された、という事実。
人はみな力があるということ。
自分で自分を救う力があるのです。
人の助けを自分の力に変えることができる。
それは一生懸命言葉を探すことかもしれないし、
違う方法かもしれない。
けど、自分を幸せにできる方法を
"わたし''は知っているはずだから。
もう大丈夫。
そう思えたなら、
かつての自分を癒した
その言葉さえも手放してもいい。
必要な学びとして、
私を弱くもしたけれど、
逞しくも、強くもしてくれた。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
大好きだよ。
流れに委ねて、書きました。
言葉にする癒し方。
私には合っていました。
自分を愛することを学びました。
みなさまに、
何か届くものがあれば、幸いです。
最後まで読んでくださり、
ありがとうございます!
いつもありがとうございます✨
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またお会いしましょう🌈