高等学校国語科用『国語総合-現代文編‐』を今の私が読むと①
実家で高校時代に使っていた国語の教科書を発見した。
サラッと読んだ感想をサラッと残そう。
授業で精読した題材はそれなりに覚えているもので、懐かしかった。
★の単語は”語彙を広げる上で注目すべき語句や慣用句”として挙げられていたもの。
〇【評論】ありのままの世界は見えないー田中真知
評論の中に、昔、アフリカの村で白人の衛星監視員が衛星の大切さを教える映画を見せたというエピソードが書かれている。
何を見たか村人に尋ねると「ニワトリを見た」という返答が。監視員たちは衛星に関することを見せたつもりなのに、一瞬だけ映ったニワトリを見たと村人は答えた。反対に、監視員はニワトリが映っていることを認識していなかったというエピソードだ。
当時も”関心”によって人が見るものはこんなにも変わってくるのかと驚き、納得した記憶がある。
今回読み返して、自分が人にモノを伝えるときの伝え方を反省した。それぞれがそれぞれの”関心”を持ち、持っている知識や経験も違う。
「見ている世界はみんなそれぞれ違う」頭の片隅で忘れないようにコミュニケーションをとっていかなければなと思った。
〇【評論】水の東西ー山崎正和
この評論は1977年に刊行された批評集に収録されたものらしい。西洋人が好む造形された水を対称とし、日本人が好む流れる水について書かれている。
この話を読んで、頭にうかんだのはYouTubeで聞ける睡眠導入やヒーリング音楽の水の音だ。確かに、日本人は流れる水の音が好きだなと納得した。
これらの音を人を心で味わっている人は少ないと思うが、噴水の音(造形された水)の音はYouTubeで見たことがない。(筆者は水を実感するのに、≪ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接的に心で味わえばよい。≫と書いている。)
文化の違いを改めて感じるとともに、無音の海の映像と音だけの波の音を想像すると、私も水の鑑賞は”見る”ことよりも”聞く”ことのほうが得意だなと思った。
〇【小説】羅生門ー芥川龍之介
下人が老婆の服を追いはぎする場面が印象的だけれど、改めて読むとずっと厳しい小説だと思った。舞台である京都は、地震や飢饉など災いが続いて起こったと書いてあるし、老婆は死体の中に埋もれている。
学生時代は”下人”の意味を正しく理解していなかったため、下人も下人で相当厳しい状況に置かれていることを初めて理解した。
老婆は自分の言動を”しかたがなくする”としているが、物語を読んで全体的にこの羅生門の上で起こったことは、”しかたがないこと”であったのだろうと思う。
「下人はその後どうなったと思うか」と教科書では問われているが、私は盗人になりつつ、老婆のように暮らし死んだのではないかと考える。
〇【小説】神様ー川上弘美
この小説は学生時代、授業で取り上げなかった小説だ。私の先生は教科書に線を書かせる人だったので見返すと分かりやすい。
小説に描かれている世界はどんな世界だろうか。異世界系のお話は最初に説明があることが多いので、若干戸惑った。
くまと人間、お互いが違う文化を持っていたため、くま社会と人間社会がまじりあってすぐの世界なのだろうか。舞台が田舎のようだったので、都会はある程度くまとの生活が浸透してきて、チラホラ地方にもくまが移住しだした時期なのかもしれない。逆に人間と自然が共存する里山での出来事で、混ざり合うお試し期間なのかもしれない。
どんな世界かは分からなかったけれど、ほのぼのとした日常が描かれていた。”くま”と”人間”であることは大切にしつつ、お互いを尊重するような”くま”と”人間”だった。