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人間は機械?生死とはシステム?

ふと、日常を生きてるとふと疑問に思うことが多々ある。
人間の脳は10%しか使われてないのは有名な話だ。
脳科学や脳医学においても、脳の領域は未知が大部分を占めている。

皆も体験したことがあるだろう、
眠る時に見る夢、何故、人間は入眠中に夢を見て擬似的体験をするのか?
そこに、起因するのは、脳内における神経シナプス伝達の電気信号の活動であり、いわばコンピューターでいうメモリのバックアップや再起動・再起動の情報処理作業が無意識下で行われているとも言える。

また、デジャブ(既視感)も体験したこともあるでしょう。デジャヴは神経の通り道が違ってくることで起こる脳内の情報処理プロセスに起因するものである。

我々はこの世に生まれた瞬間から、「命」という概念を埋め込められ、「心」や「魂」の所在に「自我」を見出す。そして、「神様」や「天国」などの存在を軸にすがりつき、生きている。
しかし、「利己的遺伝子」で有名な科学者のリチャード・ドーキンスは「神は妄想である」と述べる。
科学的に、俯瞰して、「人間」というものを見れば、人間は「創造物」よりも、遺伝子の方舟とする「製造物」に近い存在とも言える。

「人間」が「人」として
「心」や「魂」の概念を持つ以上、
「人」は皆、何かにすがるしかない。
そして、私達が信じる「神様」や「天国」
「輪廻転生」にすがりつき、生きる弱い生き物だ。


では、「死」を迎えると、「人間」はどうなるのか?

それは、ただ「無」へと還るというよりも、

 「有機的な物」から「無機的な物」へと
変換されるだけだと考える。

ドーキンスの生存機械論が前提で、
「人間」が「情報」を持つ器だと

仮定すると、その「器」がなくなれば、 
そこに内在していた「情報」は

遊離・分離・移動

     「情報伝達」として          「別次元」へと移行するものであり、  「生死」、とは、
「情報伝達」のシステムなのか?


「人間」という生き物が

「情報の器」とするなら、

皮肉に言えば

「情報を持ち活動する無機的存在」
なのだろうか?

 我々の抱く「感情」や「思考」などが、
 脳内で電気活動により生じる現象で、
 我々、「人間」は「機械」と、     さほど変わりないのだろうか?
そして、「終焉」を迎え「無」へと回帰し、
情報のみが伝達するなら     「生」というものはシステムなのか?

、、、などと、飛躍して妄想にふける今日此の頃です。

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