てんぐの用心棒考:峻厳なる断罪としての「正義」と暖かき人の「善」の狭間に立つ素浪人
元旦にNHK-BSで用心棒が放送されたわけですが、それを切っ掛けに色々な人の用心棒や椿三十郎についての記事を見つけました。大変勉強になります。(椿三十郎の捕虜になった侍っ面で)
さて、てんぐもてんぐなりに用心棒を考えてみたわけですが、あの三十郎こと素浪人の振るう剣が正義だとしたら、それは峻厳なる断罪なんじゃないでしょうか。
ご存じの通り、三十郎の目的はたまたま立ち寄った宿場町を二分するヤクザたち、清兵衛一家と丑寅一家を共倒れさせることでした。
しかし三十郎はヤクザ壊滅を誰に求められたわけではありません。
ヒロイン枠の飯屋の権爺にしても、町の事情説明を一通りした後に「あの頃の町に帰らねえものか」などと泣き言も言わず、「毒気が移らねえうちに出ていくことだね」と言っているくらいです。
しかし三十郎は「この町が気に入った」と言い放ち、あの清兵衛と丑寅の共倒れ計画を滔々と語ります。
それは、宿場町自体の壊滅と引き換えに実現しました。
そして、完全に荒廃した町を見渡し、三十郎は満足げに言います。「これでこの町も静かになるぜ」。
これがもし風の谷のナウシカだったら、土鬼だけでなくトルメキアも瓦解させたナウシカが、人類社会の崩壊を確認した後に呆気にとられたアスベルに「あばよっ!」と言い放って瘴気を運ぶ風と共に腐海へでも去っていくという、とんでもない狂気のカタストロフエンディングです。まあ、実際マンガ版はそれに近いところはありますが。
さて、「正義」とはそもそも何なのか。
本稿ではその定義を「不義の断罪」と定めてみます。
そして三十郎が「正義」の剣を振るうとして、「断罪」しようと決意した「悪」とは何なのか。
それがもし清兵衛や丑寅といった個々のヤクザたちだというなら、清兵衛一家を壊滅させた丑寅一家との最後の決闘は、もっとカタルシスと三十郎の怒りを前面に押し出したものになったはずです。
でも実際は、丑寅一家の山犬のような謀士、拳銃使いの卯之助との睨み合いこそスリリングでしたが、無造作に近づく三十郎の圧に負けた卯之助が「あまりこっちに来るんじゃねえ!」と叫んだことで勝負がついてしまっています。
その後の展開は、丑寅自身も怪力自慢の亥之助や、自分を拷問で半殺しにした巨人のカンヌキも、なんのドラマ性もなく撫で斬りにする、いわば先の睨み合いによる格付けの検算にすぎません。
もっともその検算が、今日ではなかなか拝めないレベルの立ち回りなわけですが。
そして、その撫で斬りの後に出るセリフが、上記の「この町も静かになるぜ」です。
「正義」としての三十郎にとって満足すべき結果とは、実はこの「静かになった」というくらいの町の崩壊なのではないでしょうか。
惣代名主や大店の主、そして十手持ちに象徴される、出入りを続けるヤクザたちに好き放題させているこの宿場町そのものに「静かになる」という破滅をもたらす、そんな「峻厳なる断罪」こそが三十郎に宿った正義ではなかったか。
そんな「正義」、あるいは狂気を宿した三十郎に権爺が、なぜそうと知ってなお最後まで付き合い続けたのか。それは権爺もまた、「この町はもう終わりだ」と悟っているからでしょう。
この用心棒の世界観は米ソ冷戦構造の戯画化であるということは、映画通なら周知のことです。
そのことを考えると、三十郎と権爺の姿は、「不義の争いを続ける世界そのものに滅びの断罪をするもの」と「世界が黄昏時を迎えていることを悟ったもの」の取り合わせだと言えるでしょう。
さて、この映画は、三十郎の危険な目的達成のために無駄をそぎ落としてきました。
そこに中盤で、これまで存在しなかった無駄が生じます。
それは丑寅一家の後ろ盾となっていた造酒屋の主によって引き裂かれた百姓一家を「ああいう哀れな奴は大嫌いだ! 反吐がでる!」と叫んだはずの三十郎が助ける展開です。
これがなぜ無駄なのかというと、三十郎の「正義」が完遂されれば造酒屋も丑寅一家も崩壊し、一家はまた一緒に暮らせるようになるのだから、なにも危険な橋を渡る必要はなかったはずです。
でも三十郎はそれを待たず、これまで重ねた熟慮とは裏腹の危険な即興劇に身を投じ、それが原因で後に窮地に陥ります。そうなることは、その選択をしたというより人情の衝動に駆り立てられた三十郎自身が一番理解していたはずです。
皮肉なユーモアとタフな風情の裏に存在する怜悧で破滅的な「正義」とは全く異なる種類の衝動、これは何かといえば、「善」と言えるものではないでしょうか。そして、その「善」とは理屈や計算とは別個のものであり、何より「正義」を行使する己を否定するものとしての人間味と言っても良いかもしれません。
だから、彼に感謝して拝む百姓一家に対して、三十郎はむしろ怯えたように「やめろ!」と叫んだ、そんな風にも見てとれます。
そこまで考えたときに、続編の「椿三十郎」での、全く何の役にも立っていない若侍たちが、まさにその役に立たないという大きな役割を果たしていたことに気付きました。
三十郎という危ういほどの抜き身の切れ味を無理やりにでも封じるための、反りの合わない鞘。でももしこの鞘がなければ、三十郎はまたも「正義」の剣を振るい、今度はあの藩全体を「静かになった」としかねなかった。それを封じていたという大手柄を、あの若侍たちは立てていたのです。
スリリングで非情な「正義」と熱く優しい「善」という危ういバランスの上に立脚しているし、だからこそ時代を越えていつまでも愛される。
それがあの三十郎と名乗る永遠の素浪人なのでしょう。