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もはや老害を嫌わない(エッセイ#6)

通勤電車の中。様々な世代の人がいる。お年寄り、中年、30代~40代、若い人々。日本は少子高齢化社会とはいえ、本当に様々な世代の人がいる。
私が属する30代から見ると、上の世代の人数は当然多いと感じると同時に、下の世代も相応に多いなと感じている(若い人からはエネルギーを感じるため、実際以上に多いように感じるのかもしれない)。

何を隠そう、私は年長者が根っから嫌いだった。昔からだ。小さいころから、老人や年長者が嫌いだった。決めつけがましく、話を聞かず、何も社会に貢献していない人々。そのように思っていた。「年長者を敬いなさい」と道徳の授業で教われば教わるほど、私はそれに従うことに嫌気が指していた。社会に出てからだってそうだ。会社に居座る年配者。昔に作った仕組みを誇らしげに掲げながら、今起こっている変化を拒む上司たち。”老害”という言葉が社会に浸透してきたことを考えると、似たようなことを思ってきた人は、多くはなくとも少なからず居るのだろう。

ただ、私は"老害"を嫌うのをやめようと思う。どうしてか、あんなに嫌っていたはずのに。それは私が、物事を相対的にみるようになったからかも知れない。当たり前のことを「想像」したということなのかも知れない。とにかく、年配者の立場になって物事を考えてみたときに思った。

年を取れば、力も衰えて、知力・体力・精神力のどれもがなくなっていく。それなのに、社会は当然のように早いスピードで変化をやめない。現代はITがあるから、という個別具体を指したいのではない。いつの時代だって、既存の枠組みを変えて(変える「誰か」があらわれて)人間・社会は歩んできたと思う。そのスピードに付いていけなくなることは、誰にとっても当然じゃないか。誰だって、自分の力が漲って、若々しく、甘酸っぱい思い出も夢も挫折も希望もあった、若かりしころの時代を懐かしく思い、その記憶を糧にして生きているんじゃないのか。

ー私がもし、いま老害と呼ばれている人たちと同じ世代の人間だった時、果たして私は、自信をもって”自分はそうではない”と言えるだろうかー

結局のところ、人が老いて力を失っていくことと、時代が変わっていくことは、常に隣り合わせだ。ニヒルなことを言いたいわけではないけれど、長生きしている「年配者たち」は、長生きしているがゆえに、時代に適応することを求められる度合いが増していくというジレンマを構造的に抱えていると思う。彼らが生きていることは、必ずしも幸せなのだろうか。

勿論それは人によるだろうし、私が規定することでは毛頭ないと思う。私は、同時に、年配者を嫌うことにも意味がないと感じるに至った。今まで、年配者に対する敬意を、内発的に持ち合わせていなかったことに一抹の羞恥を憶えながらも、私はここに書き残しておきたい。私は、ご年配の方々を嫌うのをやめます。私はいま生きている人たちが、ただ単に存在して、暮らしているこの社会で、人と関わり合いながら生きているだけだ。

今日も明日も、電車は走っている。いろいろな時代を経て「いま」を生きている、老若全員を乗せて。

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