「嫌」という気持ちを自覚するということ
大好きなテラスハウスのメンバーが亡くなってしまった件を受け、ネットは誹謗中傷に対する人たちのつぶやきや見解で溢れている。「こんなことを言われて傷ついた」「人間なんだから傷ついて当たり前」「どうしてそんなことをするのだろう」…沢山の人の「嫌だ」という気持ちを見て、それを溜め込んでいたことを知って、改めて、最近、自分でもハッキリと思う「嫌」という気持ちについて向き合おうと思えたので、ここにまとめている。
嫌という感情と向き合う、ということ
これは私が書いた漫画ではないのだが、これを読んだ時、前に付き合っていた彼氏のことを思い出した。その人は勉強熱心で、自分が夢中になったことに対しては時間を惜しまない、いわゆる「職人タイプ」の人。また、仕事が大好きということもあり、そんな彼の仕事に対する姿勢は、恋人の私でも尊敬できる部分だった。
けれど、そんな大好きで尊敬できる彼だとしても、一緒にいる時間にいつもスマホを見られるのはすごく嫌だった。もちろん、スマホ以外でも、パソコンにかじりついて一向にこっちを見てくれないこともあったし、ひどいときは、一緒にいる時間、私と話すよりもスマホで漫画を読んでいたり、You Tubeを見たりしている時間のほうが長いときもあったと思う。
「それをされるのは、嫌な気分になるからやめてほしい」と伝えたことも何度かある。「一緒にいるのに、目の前の人を大切にされていない気がする」と。「悲しい気持ちになるんだ」と、泣きながら話したこともある。
けれども彼は、やっぱりそれをやめてはくれなくて、最後、私は、スマホを見る彼がこちらに興味を持ってくれるまで、自分も仕事をしたり、あんまり興味のない本を読んでみたり、YouTubeで時間をつぶすなどして、待つようになった。「結局人に期待しても良いことなんかないし」と思って、違うことで時間を潰そうとしたけれど、今思えば、あれは本当に「嫌だった」と思える行為だし、それをする彼氏なんて、さっさと別れればよかったんだと思う。けれども、その時の私は「嫌だ」という気持ちを自覚して、受け入れることができなかった。
嫌という気持ちはマイナスなことではない
冷静になった今、どうして当時の私が、嫌だという気持ちを受け入れることが出来なかったんだろう、と考えた時、最初に浮かんだのは「嫌だという気持ちをマイナスに捉えている」ということだった。
小さい頃から私は、「いい子でいなきゃ」「みんなに好かれなきゃ」と思って生きてきた。愛されることを求めていたからだと思う。(今ならそれは、健全な愛じゃないことがわかる)周りの空気を読んで、周りに合わせることで、なんとか調和を保っていたからこそ、「自分がこれをされて嫌」という主張を通すことは、周りの空気を壊すことに繋がると思っていたし、それをすることで、誰かに不快な思いをさせてしまうかもしれない、誰かを傷つけるかもしれないってずっと思っていた。だからこそ、小さい頃の刷り込みって、本当に恐ろしいな、と思う反面、どうしても「嫌だ」という気持ちを自覚して、誰かにぶつけることが怖かった。
けれども、大人になった今なら、わかる。嫌という気持ちは、本当は「何かを好きだ」と思う気持ちと同じくらい大事なことなんだということを。
そして、それを「誰かにぶつける」のではなく、まずは自分で「自覚する」ことこそが、本当に大切なことなのだということを。
「嫌なこと」を自覚をすることは、自分を大切にすることと同じだ。
嫌なことを自覚すること、これをされて嫌だった、傷ついた、と感じたことを振り返ることは、=自分を大切にすることとつながっている。だって、それは素直な自分の気持だし、素直な自分の感情だからだ。
相手にそれをぶつけるか、伝えるかどうかはその次でもいい。でも、自分が「これをされて嫌だ」とハッキリ自覚できなくなったら、それはもうピンチだと思う。
当時の私も、そうだった。「これが嫌だ」と思っているのに、それを相手が受け入れてくれないことを知った途端、自分を変えることで自分を守ろうとした。けれども、されて嫌なことは「嫌なこと」なのだ。その事実はもう、なにがあっても揺らがないし、揺らがなくていい、と思う。もっといえば、それを我慢したり、考え方を変えないと付き合っていけない相手って、自分にとってさほど重要な人物ではないと思う。そんな人より、自分を大切にしてくれる人を探したほうがよっぽど健全で、楽しかったんだろうなと、今の私なら、それがわかる。
まずは「嫌」を自覚すること。その気持を大切にすること。声をあげれなくてもいい。でも、自分がされて嫌なことは、嫌だとハッキリ、自分の声に耳を傾けてあげてほしい。「私が我慢すれば」「考え方を変えれば」なんて、思わないで。
悲しいニュースの裏側で、沢山の人が抱えてきた声を耳にして、今の私は、それを本当に思う。自分が自分を一番、大切にしてあげられたらいいなと思う、すべての人に贈る文章。
あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。