【抽象的な日本語】と【具体的な日本語】を研ぎ澄ましていないと執筆が出来なくなる話
お久しぶりです、ラケットです。
社会人になりまして一本目、徒然なるままにPCに向かひて、最近ふと思ったことでもそこはかとなく書いていこうと思います。
さて、学生時代のラケットと言えば、執筆に打ち込み、web小説でのランク入り、公募で優秀賞を頂くなど、ささやかな目標を達成しては満足し、悦に浸っていたものであります。
そんな私が好きなのはやはり小説や詩といった、抽象的な日本語だったのです。
ところがどっこい、社会人になってみますと、日々の業務で求められるのはどうしても具体的な日本語であるわけです。
「いつからいつまでに」
「誰と一緒に」
「こんな作業を」
「こういう手段でやります」
「目標はこれです」
全て具体的に伝達しなければならない。
まあ、当たり前のことです。仕事ですから。
数字を出さなくてはいけない会社というものは、具体的なものの積み上げで動いています。
そのためには、正確な言葉でブレなく伝える能力が求められるのは至極当然。
要するに、伝達に解釈の幅があってはいけないわけです。
しかーし。
そんな場所で定規のように精密な言葉ばかりを使っていると、抽象的な日本語の使い方を忘れてしまうんですね。
例えば、遠くに立ち込めている暗い雲を見て
「重い雲が、ゆっくりと濡らすように街を包み込んでいった」
と表現したとします。
小説などで心情描写に慣れている読者諸賢であれば、この文を見て
「語り手は、良い気分ではないはずだ」
「きっと心に重苦しい何かを抱えているのだ」
「降り出しそうな雨雲は、溢れそうな涙を表しているのだろう」
などと各々解釈することでしょう。
これは、文章を抽象的な日本語であるとして捉えたがゆえに生まれる解釈です。
もしこれを具体的な日本語だと思って処理してしまうと、
「雲は水滴の集まりなので、重いも軽いも無い」
「本当に重いなら雨に変わるはずだ」
「街を濡らす……つまり雨が降るということか? 傘が必要だ」
などと、物語を味わうどころではない無粋な分析が発生してしまいます。
しかし、現実の業務で必要なのはこっちなんですよね。
遠くの雲を見て「まるで俺の落ち込んだ心を映しているかのようだ……」などと考える暇があったら、一秒でも早く天気予報を調べて折り畳み傘を持っって行くべきかどうか判断することが重要なのです。
だから、乖離が生まれるわけです。
そんなこんなで抽象的な日本語をすっかり忘れてしまいかけた私ですが、どうやってあの頃の感性を取り戻せばいいのか。
ずばり、書くしかない。と、私は思います。
書くのがまったく無理であれば、読む。そして書く。書くために読む。
インプットを取り入れつつアウトプットでリハビリしていくことしか、この新社会人筆折り現象に打ち勝つ術は無いのです。
ということで私ラケットは、小説執筆を再開することをここに誓いまして、この記事を締めさせていただきます。
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以上、ラケットでした!
またね!(*'ω'*)
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