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篠田桃紅、そのパンクなおばあちゃん

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美術展ナビより

墨は重ねても一回性の重なりで墨は消えない。
人が一刻、一日と生きて、一つの生涯となるのと同じように思われる。
人が描くというしぐさには祈りに似た孤独の形がある。

篠田桃紅『墨いろ』

墨で描く美術。

2021年3月1日に亡くられたと知りました。享年107歳の書道家。

数多く残るインタビュー映像の中で、その一言一言が鋭く、鮮やかで、つい見入ってしまう魅力。

この魅力はなんだろう?

「私はその日暮らし。その日その日の風に任せて生きている。」
「目標を持ったことはありません。生きているのは筆を持って描いているのが生きているという感じ」

5年ほど前に、NHKで特集を見たときに目を奪られました。100歳を超えてなお、その感覚は10代のようにみずみずしい。

斬新なセンスには、年齢は関係ないと改めて思い知らされました。

100歳を超えているからもちろん見た目はおばあちゃん。そのおばあちゃんからことごとくおばあちゃんらしからぬ鋭い言葉が次々と出てくる様子に、見ている私は釘付けになりました。

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「だからいっつも嘘なんです。取材っていうのは嘘。全部嘘。それだけははっきり申し上げておきます。だからあなた方は真実を取材できると思ったら大間違い。それは思い上がりよ。真実っていうものは、人が捉えうると思った瞬間に、真実じゃなくなってるわね。」

※メディアが真実を曲げて報道しているという主旨ではありません。真実を切り取ろうとしたその瞬間に、それは真実ではなくなるという意味で話されていました。いつも一人で描いている作業場にて、カメラが入って取材を受けながら書く姿は、普段の様子でいて、普段とは異なるもの、という文脈です。

「いつもと同じ方ですか?いらしてる方は。前の。」

「同じです。」(NHKクルー)

「ああ、そう。それならいいけど。初めの方だと、ええぇこんなおばあさんか、と思うからさ。私もこんなに長生きするとは思わなかったから。つまり、予定外ね。人生は。困っちゃうな本当に。

篠田桃紅氏は、戦争を経験しその後1956年にアメリカで展覧会を開催しました。ボストンの次にニューヨーク。その時に感じたことも深くうなづくものでした。

「アメリカの広さがわかった。ボストンという学問の都、ニューヨークという様々がひしめき合う。アメリカの幅の広さ、奥の深さを知り驚いた。敗戦しても呼ばれるという経験で、アートがもつ普遍性を痛感した。」

彼女のスタンスは一貫しているように思う。自分自身のことにしても、作品に対しても周りの声にその評価がブレることなく自分の基準で物事を見ている。

「紙や墨を無駄にして何をしてるんだろうと思う。評価されてるし、みんないいと言うが、思い上がりだ。もっといいものが描けるはずだと思っている」
「できたものが気に入らない。もっとできると。皆は自分を買いかぶってる。私は謙虚な気持ちがない。もっといいものが描けると信じてる。」

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「私は謙虚さがない。感謝という気持ちは少ない。感謝するっていうのはすごいこと。人に感謝するときって助けてもらったとき、何かしてもらったときにそりゃ感謝するが、ただ生きてて天地万物の目に見えない何者か神さまかに感謝する、そういうことはない。自然物だから自然に生きている。」
「決まりがあるでしょう。ね、川は縦3本と決まってる。いくら引きたくたって3本しか引けない。だから書っていうものは人が作った決まりにこっちが合わせている。アレンジなんですよ。創造じゃない。クリエイトとアレンジの違い。それは徹底的に違う。絵と書は。」

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「日々、違う。生きていることに、同じことの繰り返しはない。誰か式、誰か風、ではなく、その人にしかできない生き方を自然体という。自らに由る。自らに由れば、人生は最後まで自分のものにできる。」

最後に、篠田氏からの私たち大人世代に向けたとびきり痺れるメッセージを紹介して、締めくくりにしたいと思います。

「やりたいことがない。この世に魅力がない。若い人が生きる希望があまりないということ。若い人の先輩があまり楽しそうにしてないから。年老いた人が楽しそうにしてたら「いいな」と思う。若い人が憧れたくない、憧れられない。我々の責任かもよ。」

世界も、日本も様々な課題を次世代に残してしまうと言われています。彼ら彼女らが大人になったときに生きにくい世の中になってしまっているのではないかと。

先輩世代の私たちが悲観していて楽しくしていなければ、そんな大人をみて育った子供たちは、やはり楽しく生きてなんていけない。

だから、

今日も、明日もたくさん笑って過ごしましょう。

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レイチェル
またお目にかかれるときを楽しみにしています。