プライドが高いのを直さなきゃと思っていた私へ
こんにちは、とうらです。
あつい!!無茶苦茶暑いね!!!!
私は散歩するのが趣味なんですが、夏は日が落ちそうな時間帯に出かけるようにしてます。
空もいい感じになってきますしね。
それでそんなお散歩時間にふと考えたことがこうして記事になっているわけですが、
今回は「プライドの高さをどうするか」について私が考えてきたことを話したいと思います。
よく、
「自己肯定感が低いわりにプライドが高くて感情がぐちゃぐちゃになる」
みたいな悩みを身近な人から聞く度に、
わ〜、自分もあったな〜〜
というか、今もあるな〜〜
という気持ちになります。
自己を否定する感覚に慣れきっている上に、
「こうしなければ」「こうあらねば」と自分に対して高すぎる基準を設けるのが当たり前になっていて、
その根本には実はそれなりの自尊心だったり、「こうあって当然」などという自分に対するおごりの気持ち(プライド)があることも薄々わかっている…
だからこそ、自分を肯定してやったらいいのか、責めたらいいのか、
一体どうしたらいいのかわからなくて、
結局いつもの自分を罰する癖が勝ってしまい、苦しくて悲しくてめちゃくちゃな気分になるんですよね。
しかもそういうよくわからない感情の時ほど、
「全部自分が悪いんだ」
「自分のこの部分を殺してしまえばいいんだ」
と無理矢理な判断を下して解決しようとすることが多い事に最近気づきました。
タイトルの「プライドが高いのを直さなきゃ」という思考はそういう心の流れから生まれていると思います。
本当に、「プライドが高い」は直さなきゃいけないものなんでしょうか?
結論から言うと、今の私は必ずしもそうではないと思っています。
重要なのは「プライドが高いかどうか」ではなく、「自分を大事にできているかどうか」の視点だと思うからです。
むしろ自分を大事にするためのプライドならいくらでも守りましょうよ、くらいに思っています。
例えば、
自分らしい生活をするためのお金を自分に与えてやること。
自分が本当に表現したいことのために技術を磨くこと。
人とぶつかってでも、自分が心から思うことをきちんと発言すること。
人によって項目は様々かもしれませんが、
上記のようなことは自分らしく生きるために欠かせないことですよね。
だから、お金を自分に与えてやる=お金を稼ぐことも、
がむしゃらに頑張って何かの修行をすることも、
誰にも譲れない考えを持ちそれを表に出すことも、
別にそれ自体は、何も悪いことではないし、
直すべきことでは全くないと思うんです。
間違っているとしたら、
頑張って稼いだお金の使い道が「人にこう見られたい」のためだったり、
血の滲むような努力の目的が「あいつよりこうなりたい」であったり、
相当の覚悟を持っての発言が「この人の考えを変えさせたい」などと、
ほぼ100%「他者のため」が目的になって、実質自分には何の利益もなく疲弊してしまう場合だと思います。
…いえ、ちょっとはそういう気持ちが入っていてもいいと思うんですよ。
全くもって純潔に「自分がこうしたいから」っていうよりも、少しくらい承認欲求的な気持ちが入っていた方がむしろ人間として自然じゃないですか。
でも、ほぼ100%外側にしか目的がない場合、それは「自分を大切にしてあげられていないが故に作られた仮面としての”プライドの高さ”」なのではないかと思います。
なので、他者の視線や自分の外側で設定された基準が気になって仕方がない事は事実としても、それを「自意識過剰」だとか「おごり」などと即座に片付けてしまうのではなく、「なぜそうなったのか?」を見てあげるのが大事だと思いました。
そしてその根本原因をよく見た時、「自分がわからない」「自分を自分で認められない」に行き着いたんです。
上記で「『他者のため』が目的になってしまう」と書きましたが、
「こうでないと自分じゃない」「これができない自分は未熟でとても認められたようなものではない」というのもあり、根本は同じだと思います。
そこには、自分のことがわからないからこそ、自分の外側を見るしかなくなり、外側の基準だけで自分を見てしまった結果、自分を自分で認められなくなる…という負のループが見えてきたんです。
そしてなぜ自分のことがわからないかというと、現代社会的な情報過多とか、エンパス的な情報過多とか、過去のトラウマとか、そう教育された経験とか、幼少期の環境だとか、元々の性質からくるものだったりとか、
私の場合は上記のほとんどが当てはまるのですが、人によって色々な原因の組み合わせがあるのではないかと思います。
しかし本来は、もう少し自分のこともわかって認めている上で、適度に外側の情報も取り入れているのが理想であることは、何となくわかっています。
…なんて、言葉で説明してしまうのは簡単です。
「自分のこともわかって」「認めている」と言いましたが、これが実はとても複雑なことだったりします。
まず「わかる」ためには、観察が必要です。
そもそも今の自分は何ができて、何ができないのか(「こんなことできても仕方がない」「できなくてはならないのでできない今は仮の姿」で濁さない)を直視することであったり。
それから、
自分がどういう時にどんな気持ちになるのか、
その時どんな身体の反応が起こるのか、
その身体の反応で後々どのような影響が出てくるのか、
その結果をさらに自分はどう感じるのか、
その当然のようなサイクルの下に隠れた自分の本当の願いや望みは何なのかを、観察するなど。
「どんな気持ち」「どう感じるか」と言いましたが、その感情は一つではないことがほとんどだし、
「身体の反応」と言ってもそれは痛みや吐き気のようなものだけでなく、脈拍数や呼吸の深さ、筋肉の強張り、体温の上昇、そしてその結果としての疲労等も含みます。
全てが悪いもの、あってはいけないものではないですが、まずは観察し、それがあることを知ることは「わかる」への第一歩だと思います。
ご想像の通り、めちゃくちゃに大変な作業です。
そもそも「自分がわからない」私たちにとって、きちんと観察できるようになるまでにも相当な時間がかかります。
そしてある程度「わかる」と大抵、「こんな自分、この世界でやっていけないじゃないか」「”普通”の基準値から外れすぎじゃない?」と絶望する事になると思うんですが、
そういう自分も「認める」というところまでがセットです。
「認める」とは、自虐的な気持ちになりながら日々を過ごすということではなく、
どちらかというと「こんな私ですが何か?(別に何の問題もない)」と思えるくらいのメンタルになるということです。
当たり前すぎる話ですが、私たちは何かできないことがあり、逆に人よりできることもあり、そんな個性を持った一人一人でもう既に十分に最高です。
そこに外側の基準は必要ありません。(というか、そういう一人一人でできた世界であることが現実なので、そもそも作られた基準の方が実際は浮いています。)
かと言って、「このままの自分で良いから何もしない」を選択することだけが唯一の正解というわけでもなく、
「こんな私ですが何か?」でいつつ、より自分らしく生きていくことを目的として何か努力したりするのもまた正解だと思います。
そう考えていくともう「プライドが高い」とかは関係なくなってきます。
土台として、自分の感じることや身体の反応が事実で、全然それでOKで、
その上でそれをどうするかは、周りがどうとかではなく、全て自分の心の向く方向(どうなりたいか、そこにワクワクする気持ちや本物だと思える感情があるかどうか)に委ねられているからです。
その思考を曇らされた状態なのに、一様に「プライドが高い」の一言で片付けられるとしたら、あんまりですよね。
そんな雑なアドバイスでは、むしろすべきことを見失ってしまいます。
そもそも人間はプライドがあって当たり前です。
プライドゼロで生きていける人もいるかもしれないですが、全員がそうとは限りません。
ここでもう一つ私が思うのが、必要なプライドの高さは人によって違うということです。
例えばある人がお金と一切無縁になり全裸で森の中で暮らしてそれで十分幸せ、だとしても、
それが他の人にも必ずしも適用されるわけではありません。
他の人がそれを見て、「私の真の望みもこうなのかな?」「まだまだ自分のプライドの高さを改善しなければ」「他者目線を排除しなければ」と思う必要は無いと思います。
(生活形態とプライドに必ずしも相関関係があるわけではないと思いますが)
自分の心が納得する最低ライン、つまりプライドのレベルや方向性はどこに位置するかというのは、他人を見てではなく、自分で色々試して経験をしたり、じっくり考えて自分の中に見つけないと、わからないことです。
(その最低ラインをあえて超えてみることで、見えてくるものもあるかもしれません。)
このようにプライドは人によって違うので、
人にそれを探るヒントは与えられても、プライドを低くすることやなくすことを強要することはできません。
それで楽だからといって自分の低い基準を人に押し付けたら、ただのマウントになってしまうと思います。
それは自分の高い基準を他人に押し付けて馬鹿にしたりしてはいけないのも、同じことです。
もちろん今自分の中に認識しているプライドが、過去の教育などによる呪いによるものなのか、それとも心から必要なものであるのかを判断することは、かなり難しい場合もあると思います。
もしかしたらその両方なのかもしれませんし。
でもそれを「本当の本当の本当は…?」と探り続けていては、死ぬまで路頭に迷う羽目になる可能性も高いと思います。
それよりは、「自分が自分を大切にできている感覚」「今、心地いいかどうか」を迷いながらも大切にする方がいいと思うのです。
何度も言いますが、その基準は自分の外側ではなく、内側にあります。
文章の序盤の方でも言いましたが、自分を大事にするためのプライドならいくらでも守っていいと、私は思います。
はじめに「自己肯定感が低いわりにプライドが高くて…」という言葉を出しましたが、考えてみるとこの「自己肯定感が低い」と「プライドが高い」はセットで繋がっていたんですね。
そしてその「プライドが高い」とは無関係の、本当に自分に必要な「プライド」もまた存在していて、
それを大切にすることは自分が自分らしく生きるために必要不可欠なことである、ということなのだと思います。
ゆっくり休んで、心地よさを求めながら、自然な状態の中で探っていけたらいいですよね。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました🕊