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【honne(3)】国際政治の実証主義(Positivism)と規範(Norms)・事実(Empirics)についての小論

こんにちは。岡崎です。本記事は、国際関係について、ブログに書くほどでもないが考察しがいのあるコラム的な内容についてだらだらと考えるシリーズ【honne】の3記事目です。1記事目は以下になります。シリーズの概要について詳しく説明しているのでご興味があれば後で読んでもらえると嬉しいです。

さて、本記事では、国際政治学・国際関係論における実証主義と規範についての若干理論的な論考を試みます。英語で言うと、Positive(実証)とNormative(規範的)というふたつの要素になります。国際システムにおいて、社会規範が入り込む余地はあまりないと従来考えられていましたが、完璧な実証が困難である以上、敢えて観察者の主体性を認めて非/超実証主義的に理論を展開するというスタンスが国際政治の「もう一つの主流」になりつつある、というのが本記事の主な内容です。

国際社会は、ひとつのシステムです。このシステムは、無秩序(ホッブス的な世界観における闘争が遍在する個人が利益を求め不安に晒され続けるアナーキー)であった主権国家の集まりを、国際法とそれを補完する様々な国際的な社会規範で律して、各国国民の安全を損なわない均衡状態を保つという役割を果たしながら、歴史の中で有機的に発達してきたものです。

それと同時に、その国際社会のルールの順守や違反を記述してきた学問が国際政治学であり、今日でも国際政治学は政治現象を解釈し研究しています。しかしお分かりの通り、政治的な現象の連続、あるいは歴史を《正しく》解釈するのは困難な事業です。

特に、解釈者である研究者・学者・教育者も、日本人のような敗戦国・アメリカのような強国・ロシアのような反米覇権国がいるわけで、それぞれの立場が衝突したり、主流意見が逆転したり、揉めたり調和したりという歴史があります。国際社会を理解する営為はそういう事情で非常に複雑な様相を呈します

実際やはり「その人がどの場所で生まれたか」ということで信条や考え方を大まかに推察することができ、その理解は大抵正しいです。例えば、イギリス北部出身の学生、アメリカからの留学生、日本人である僕では「常識」が異なりました。教室でもそうなので、例えば日本人の教授とイギリスの教授、イスラエルやインドなど世界中にルーツを持つ学者たちでは、もう全く別の生物と言っていいほど異なる見解を同一現象に対して持ちかねないわけです。
 
国際政治学を深く理解することが一筋縄ではいかないのはお判りいただけたかと思います。

学問は「正しい」とされる考え方が当然あるのに、国際関係学は紛争の当事者双方が学術的に議論を行う類の学問であるため、「正義とは、事実とは」という問いが必然的に学界の《ビッグ・クエスチョン》になります。

また、上記の問いをこう転回してみるとさらに別の議論が生まれます。
ヨーロッパのキリスト教徒男性とアジア人のイスラム教徒女性が行う国際関係研究は別物か同じか、という問いは非常に興味深いと同時に重大なモラル的リスクを孕む問いです。下手すれば差別ですからね。

これは国際政治の批判理論(Critical Theory)あるいはポスト植民地主義者が投げかける論争なのですが、国際関係というのは、社会科学の一部分として、「試験管の中(in vitro)」もしくは「ペトリ皿の中」で観察できるような現象群が研究対象なのか、つまり、歴史や戦争は、史料研究や新聞を用いた調査・聞き取りや統計調査を通して、「客観的に」実行可能なのか。あるいは、国際関係を研究するには、研究者自身が主体的な解釈者であることを把握し、自分が政治現象(例えば紛争)をその場で観察するという行為自体が現象と相互に影響を及ぼしあうことを知る必要があるのか、を議論する、というのが実証主義とポスト実証主義の考えの違いになります。

国債関係を主観的に観察するというのは、「参加型」の国際関係学という側面を持ちます。観察対象も同じ人間である以上、研究者の価値観を除いて研究することは難しいがゆえに、研究はポスト実証主義的(Value-laden)なものにならざるを得ません。そうである以上、研究者自身が紛争、介入、援助、発展といった政治現象についてどういう考えを持っているのかという信条が論文の中に含まれるのは、研究者が個別のアイデンティティーと考え方を持っている以上不可避です。研究者としての自我を明示して説明したうえで、社会における自分のスタンスの取り方の個別性を認める論文の書き方では、国際社会がこうあるべきであるという規範が論文の中に遥かに盛り込まれやすくなります。これが規範論的国際関係論(Normative International Relations)です。

しかし、先ほど述べたように、いくら立場が違うとはいえ、国際関係研究の内容に人種や宗教・性別で大きな差が出るのは非合理的です。とある二国の核兵器外交を研究するならばアジア人であろうとヨーロッパ人であろうと適切な手法の優れた研究を発表することができるという原則が通用すべきですよね。批判理論研究者やフェミニスト、ポストモダニストの批評はあれど、そうしたリアリズム的国際政治観は盤石なものです。

歴史自体には国ごとの差異が認められど、そうした差異は事実(Empirics)に基づいて検証可能なものであり、検証のできない歴史的事実はないがために、これまでリアリスト的パラダイムは幅広く支持を受けてきました。国際関係は、国家を最小単位・アクターとするシステムとして観察されるべきであり、国際政治学者はそのいずれの国にも肩入れするべきではない。

国債関係は各国が軍事力で以て国民の安全保障をより安定するものにしようとするというルールに従うゲームであり各国は国益を唯一の行動基準として動いている。国際政治学者が主体的な解釈者であってはいけないのはひとえに、アカデミアが国際政治の諸国家の国益に密接にかかわることを避けるためである。こうした考えを、国際関係では実証主義とよびます。先ほどの論文執筆者の主体的なスタンスを盛り込んでアーギュメントを構成するやり方は、こういうわけで非常にマズいわけですね。これも明快にお分かりいただけると思います。こうした考えが実証主義的国際関係論(Positive International Relations)です。

アメリカの学者が国際関係論を創設した戦間期において、学問が政治に縛られない(Value-free)ことは絶対不可欠な要素でした。いざ始まると西洋中心主義・男性中心主義の誹りを受けることになる主流国際関係論ですが、外交や国際政治の実務を経験しアカデミアに参入した当時のアメリカ人の学者たちが、学問を深め、教育を施すという二重の目的で作り上げたリアリストパラダイムは当時として非常に画期的であり、今日でもとても優れたものであることには変わりありません。

ポストコロニアル理論やフェミニズム理論といった諸周縁理論は多くの場合、植民地の歴史における非人道的な歴史に対する西洋アカデミアの無知や、対価の支払われない家庭における“非公式な”女性の労働などについての屈辱的な経験に基づいています。これらは、アメリカの外交官らの実務の経験とは異なる種類の経験ですが、いずれも国際関係論を深めるのに重要な経験であることに変わりはないと僕は考えます。

つまり、実証主義はアメリカで国際政治学を支える考え方として採用された際、アメリカの当時の学者の経験(実務経験を含む)として必要だと考えられたが、ポスト実証主義・解釈主義的なIRや規範論も、第三世界や女性学者の経験ルーツアイデンティティーのナラティブを通して現在、国際政治学上で認めることが大切だと周知されるようになってきたということです。


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