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努力を努力と思わなくなると、どうなるんだろ?
人にはそれぞれ、「息を吸って吐くようにできること」がある。
それをしている人は他人から見て努力をしているように見えるんだろう。
だけど本人はそんなつもりはないので、努力をしているという認識はない。
「私、最近努力してないなあ」と思っていた。
怠けているとまでは思わなくても、何かに頑張っているというか、努力を積んでいるという感覚が日々の中でなかったので、このままで良いのだろうかというモヤモヤ感が私の中にあった。
(まじめか?)
でも少し自分を客観視してみると、家事も仕事も日々粛々とこなしている。
「書く」ことに関しては、noteは自分で決めた偶数日の朝に公開というペースを今のところ守れている。
読書も毎日必ずするし、その他情報収集もそれなりに。
家事育児仕事をこなして残った時間でこれだけやってればまあまあやっているのでは…?
それなのに、なぜ「努力していない」という自己評価なのか?
もともと、私は努力をすることで自己価値を保ってきたタイプ。
それは裏返すと、努力をしてない自分を認められないということ。
努力をしていないと周囲(特に親)から見放されるんじゃないかという恐怖感も根底に抱えていた。
だから苦労している人の方が偉いと思っていたし、歯を食いしばって、辛くても我慢して耐える、そういう人であれば周りから認めてもらえると思っていた。
謎価値観ー!!
自己価値を低く見積もっていると、その隙間を努力で埋めようとする。
(もちろん努力以外のもので埋める人もいる)
それは「努力である」と自分で思えることじゃないといけないから、自分にとってしんどい努力をしようとする。
でも私にとって「書く」ことは努力っぽく感じない。
仕事で書いて、休日にも書いて、毎日インプットもして、「書く」が苦痛の人にとってはとんでもない努力家に見えるかもしれないけど、それは私が筋トレを何年間も続けている人とか、同じアウトプットでも動画を作り続けられる人とか、そういった人たちに感じる気持ちと同じだ。
すごすぎる。
私には真似できない。
努力を努力と思わなくなってきた。
これはきっと、良い傾向だ。
つまりそれは、息を吸って吐くようにできることに日々取り組めるようになってきたということだから。
そして、努力で自己否定を埋めようとしなくなってきたということだから。
だから私は「書く」がこんなに楽しいのか!
この先に何があるのか分からないし、何もないかも知れないけど、それでも私は書いていく。
これはきっと努力ではなくて、辞められない生きる楽しみだ。
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