「説明できないこと」を抱えながら、私たちは今日もまた生きていく
『少しでも人と違う生き方をしてると、ことあるごとに説明を求められるの、確かに一生続くと思うとキツイよねえ』
たまたま手に取った『しまなみ誰そ彼(たそがれ)』のこのセリフを読んだとき、私たちが感じる生きづらさの正体がおぼろげながら理解できた気がした。
『しまなみ誰そ彼』の登場人物は、誰もが一言で言い表せられない複雑な社会的立場を背負っている。
平たく言えばLGBTQがひとつのテーマではあるのだけど、根底にあるのは『その人らしさ』はひとくくりで語れるものではない、ということだと思う。
私たちは自分自身に対しても他人に対しても、何かの型に当てはめることによって『わかった』気になりたがる。
自分が置かれた立場や人との関係性、そして自分らしさ。
そのひとつひとつをすでにある型に当てはめて言語化することで、安心しようとしてしまう。
でも本当は誰もが少しずつ『ふつう』からズレた部分を持ちあわせながら生きている。
そしてふつうから少しでもズレていると、世の中から説明を求められる。何にも定義できない、白と黒の間の存在は認められない、と言わんばかりに。
わからないことをわからないままに受け取るとか、複雑なものを複雑なまま捉え続けるためには知性が必要だ。
世の中のすべてが白と黒には分けられないように、すべてのものごとを言語化してわかってもらおうとすると、隙間からこぼれ落ちてしまうものがあるんじゃないか、と思う。
わかったつもりになること、わかってもらえた気になること、そのどちらも実は危ないことだから。
『何でも話して。聞かないけど。』
はじめは突き放すように聞こえた誰かさんの口グセが、読了後の胸に甘く柔らかく広がる。
そして、言葉は人に説明するためだけにあるのではないのだ、と気づく。
ただ言葉を交わす、その時間だけでも十分なのだと。
私たちはきっと、永遠にわかりあえない存在だ。それでもわかりあうことへの希望を捨てきれなくて、わかってもらうためにどうにか言葉を紡ぎだそうとあがき続ける。
でも本当に必要なのは、わかるとかわかってもらうとかを超越した、もっと透明な場所なのかもしれない。
昔はオンラインの世界がそれに近かったのだろうけど、今やリアルと地続きにになってしまった世界で、私たちが何の肩書きも自分らしさも必要とされない『誰かさん』でいられる場所はどれだけ残されているのだろう。
期待されることの喜びが生きる意味につながるのと同じくらい、期待されないことの安心感もまた生きるために必要なものなんじゃないか、と思うのだけど。
『Aである私』ではなく『私』として誰もが受け入れられる世界を作るには、わからないことを無理にわかろうとしない優しい強さが必要不可欠だ。
わからないことはわからないままに。
説明できないことは説明できないままに。
そうやってグラデーションを増やしていくことこそが、生きやすい世界をつくるためのコツなのかもしれない。