やり場のない感情に光を与える、柔らかなまなざし
いまさらながら、李相日監督の「怒り」を観た。
李監督の作品を観たのは「流浪の月」がはじめてで、その映像の美しさと物語の組み立て方に一気に心を掴まれた。
他の作品も観てみたいと思いつつなかなか時間がとれずにいたのだけど、ひょんなことから「怒り」を観たら、「流浪の月」のときよりさらに圧倒されることになった。
物語のテーマは、タイトルそのままの「怒り」。登場人物それぞれが、やり場のない、どうしようもない感情を抱え、震え、涙する。怒りと悲しみと絶望と後悔。それらはすべて異なる感情にみえて実は境界線はあいまいだ。どこにぶつけていいのかもわからない感情は、海に、空に吸い込まれていく。
それでも生きていく人間の強さと、生きていかなければならない人の世の哀しみ。このテーマを描くには、2時間半弱の物語がたしかに必要だと強く納得した。
「流浪の月」も「怒り」も、扱うテーマは重くて暗い。おもわず目を背けたくなるシーンもある。登場人物の苦しみが繊細に、まっすぐに、リアルな手触り感をもって描き出される。
それでもしんどくなることなく最後まで観られてしまうのは、作品に通底する柔らかく希望に満ちたまなざしを感じるからだ。
闇や影を描いているけれど、その背後には光がある。真夜中の暗闇ではなく、まるで木漏れ日のように、柔らかな光があるからこそできる影。どんなに辛いシーンでも、根底に希望のあるまなざしで撮られているからこそ、安心して観ることができる。李監督はきっと、人間が本質的に持っている強さを信頼している人なのだと思う。
どのシーンにも温度があり、湿度がある。ただ画として綺麗なだけではなくて、もっと生っぽい、土のなかから芽吹くような美しさがある。物語としては救いのない辛い話でも、演者のなかにある魂のかがやきが映し出されていることで、自然とこちらも救われたような気持ちになる。
ハッピーエンドなんて、ないのかもしれない。それでも、生きることは美しい。
李監督の映画を観ると、素直にそう思える。この世界の美しさと、そこでもがきながら生きることの美しさ。生きることへの肯定が、彼の作品にはある。
役者さんたちのインタビューを読んでいると、どうやら李監督の現場は厳しいことで有名なのだそうだ。しかも指導方法や言葉が厳しいというよりは、ひたすら役に向き合い、考え抜かなければならない大変さがある、と。けれど、一番成長を感じた経験だった、ともみなが口を揃えて語っている。
あの映像を通じて感じる大きな優しいまなざしは、ひとつひとつのシーンを厳しく見つめる視線によって支えられているのだな、と思う。相手の可能性を信じることは、プレッシャーをかける厳しさでもあり、優しさでもある。根底に信頼と肯定があるからこそ、シビアな状況に追い込むことができる。
優しさ、柔らかさ、温かさとは、対象をただ甘やかし慈しむだけではない。可能性を信じ肯定しているからこそ厳しい目線を投げかけることもまた、大きな愛と優しさなのだと思う。
李監督のつくりだす映画には、そんな大きく深い優しさがある。物語の底にある光を見出したくて、私は彼の映画を観ているのかもしれない。
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ちなみにこの投稿は流浪の月のサントラを聴きながら書いたので、ぜひSpotifyで聴きながら読んでみてください。