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2022/06/21

また村上春樹に関心が戻りつつある。彼のデビュー作『風の歌を聴け』を読みたい、と思っているのだった。実に他愛のない、ビーチ・ボーイズを聴きながら女の子をナンパしたり友だちとビールを飲みながらおしゃべりしたりラジオで音楽を聴いたり、そうして無為に時間を過ごすというそれだけの小説……だがそんな「他愛のない日常」を小説として書くという試みこそが、深刻な事柄を小説として扱うこれまでの文学の伝統をぶち破り世界を塗り替えてしまった(と受け取っている。もしかしたら勘違いかもしれない)。そんな作品を読み、私自身もまた「他愛のない日常」を肯定する決意を固め直したいと思う。

私が物心ついた頃というのは、「日常」の価値が問い直された時期だったのではないかと思う。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたことで、この世界における魂の救済や生きる意味が問い直された。私もまた、生きづらさを感じて過ごしていたせいで「生きる意味は何だろう」と(実に愚直に)問いながら日々を生きていたことを思い出す。『完全自殺マニュアル』がベストセラーとなり、宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」と語ったことを思い出した。この退屈な日常は永遠に終わらない。だから、その日常に順応して生きろ、と……そして死ぬまで生きろ、と。

だが、その価値観の根底にあるのは「終わりなき日常を生き」るということが辛いことだというペシミズムではないだろうか。かつて私もまた、そんなペシミスティックな価値観を抱えて生きていたことを思い出す。生きることはどうしたって辛いことだし、そんな辛い人生を耐え抜いて生きたとしても後に残せるものなんて何もないし、人生は結局のところ何の意味もない……そんな価値観。いや、私もきれいごとは言いたくない。私の人生だって結局だいそれたものではなく、ただ「ひまつぶし」(深沢七郎)なのかもしれない。

しかし、私はそれでも「しょせんすべてに意味なんてない」と冷笑的になる生き方はしたくないと思うのだった。意味なんてないかもしれないが、それでもグループホームの食事をいただいている時にその美味に充実感を覚える。その美味しさがいろんなことを考えさせる。『論理哲学論考』において「世界は私の意志から独立である」とウィトゲンシュタインは語っている。つまり、私がコントロールできない事柄(グループホームの世話人さんの料理の美味しさなど)が確かに存在するという、この端的な事実。この「当たり前」こそが崇高な神秘なのだとウィトゲンシュタインは語った(と私は信じる)。そして私もまた、彼のそんな素朴すぎる価値観を見習いたいと思う。

意味なんてもう何もないなんて
僕が飛ばしすぎたジョークさ
神様がそばにいるような時間 続く
(小沢健二「ローラースケート・パーク」)

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