内田百閒「サラサーテの盤」ちぎり蒟蒻のキーマカレー

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材料

・たまねぎ 1個(みじん切り)
・ながねぎ 1本(みじん切り)
・こんにゃく 1個(ちぎる)
・合い挽き肉 300g
・ごぼう 1本(細かく切る)
・にんにく 1かけ
・しょうが 2かけ
・水(できれば、かつおだし)200ml
・トマト缶(ホール)200ml

スパイス
☆ホール......なければないでOK!
シナモン 1/2本
スターアニス 1/2個
クローブ 3個
マスタードシード 小さじ1/2

☆パウダー......なければカレー粉大さじ1.5
クミン 小さじ2
コリアンダー 小さじ2
レッドチリ 小さじ1/2
フェネグリーク 1/2
シナモン 1/2
ターメリック 1/2
ナツメグ 1/2
ブラックペッパー 1/2

【作り方】

1、たまねぎ、ながねぎをみじん切りに。こんにゃくはあくぬきをして、ちぎる。ちぎるときは、死ぬ間際のうわごとで「戸棚にちぎりこんにゃくがありますから」と言うのをイメージしましょう。ごぼうは泥を落としてからこまかく切る。太さにもよるけど、断面を半分とか1/4に。こんにゃくとごぼうで、「サラサーテの盤」の「小さな丸い物を続け様に潰している」感じを出したいので、ここはそのイメージをもってやってみましょう。

2、鍋に米油かオリーブオイルを入れて、弱火。ホールスパイスを入れて蓋。マスタードシードがぱちぱち弾けるのがおさまるのを待つ。

3、たまねぎとながねぎを入れて、塩少々、強火。飴色から強い茶色に育てます。焦げ付かないよう気をつけつつ、時折50-100mlくらいの差し水をしつつ。ある程度のところで、すりおろしたしょうが、にんにくを加えます。イメージはおふささんのやってくる黄昏時の空。あなたがそれに近いと思ったら、飴色じゃなくても別にいいかも。このレシピはカレーを食べるんじゃなくて、物語を食べるためのものなので。

4、合い挽き肉とごぼう、こんにゃくを入れて、よく熱を通してだまにならないようにします。その後火を止めてパウダースパイスを投入。そのままよく混ぜます。再度火をつけて(中火)トマト缶のホールを200ml(一般的なサイズだと1/2缶)入れて、潰しつつ、水気をとばしてゆきます。

5、水か出汁を入れて強火、ぐつぐつしてきたら弱火にして15分ほど煮て完成。最後に糸唐辛子なんかを添えると、いい感じです。


こんにゃくをカレーに入れてみようと思ってからもう1年が経った。カレーには一見合いそうにない具材を活かしてみたいと思い立ち、そのとき雷こんにゃくでもつついていたのだろう、こんにゃくでできないかと考えた。例えば豚汁や芋煮の残りに翌日、カレーのルーをそのまま入れて作るリメイクカレーならば違和感なく食べられるだろう。だが最初から作れるか。こんにゃくのカレー炒めではなく、毅然としたカレーにできるか。更に大見得切って言えば、こんにゃくを入れる必然性のあるカレーが、奇を衒って入れたわけではないと(まあ元々は衒っているにせよ)澄ましていられるものが作れるか。そんなことをあれこれ考えていた。こんにゃくを入れる必然性はなんだ、言ってみろ。脳の中では、そう田原総一朗がなんどもわたしを問うた。

作るなら「サラサーテの盤」のイメージで作るしかない。漠然と考えていたその頃からそう決めていたのは、ちぎりこんにゃくのシーンがあまりにも強烈だったからだろう。でもこれは、どちらかといえば「ツィゴイネルワイゼン」、映画版の方だ。
小説の方を見てみよう。主人公の友人、中砂の妻が熱病に冒され、死の間際、うわごとのように「私が来たら戸棚の中にちぎり蒟蒻が入れてあると云ったと云う」。残されたちぎりこんにゃく。なんだかぞっとする。今回のカレーを作りながら、またこの文章を書きながら思うのは、この「なんだかぞっとする」の「なんだか」の辺りである。微妙にもぞもぞ、くすぐったい感覚である。

わたしの趣味で言えば、「サラサーテの盤」は内田百閒の小説でも特に好きな作品だ。この小説の持つ怖さも好きだ。百閒は『阿呆列車』や借金物のユーモアエッセー(とまとめたら怒られそうだが)も面白いが、やはり小説の方が好き。しかしそう好き好きいいながらも、不思議なことに小説の筋を思い出せない。いや、思い出せないというのはちょっとちがう。思い出してもそこにしまりがない。何度も読み返している短篇なので、筋自体はわかるのだが、そこに纏綿する怖さの質感がうまく言えない。だから印象とストーリーが微妙に乖離している。ざっと思い返してみて、本当にこんな感じだっただろうかと思う。こういう説明で怖さが伝わるだろうかと、ほぼ絶望的な心地に陥る。今回久しぶりに読み返してみた。で、やっぱり困っている。依然として説明がしづらい。わかっていてもきちんと言葉にできないのははがゆい。むずむずして心細い。「サラサーテの盤」の怖さは、この感覚と、しかしそう遠くない。

ストーリーはこんな感じだ。ドイツ語の教師である「私」のところへ、死んだ友人、中砂の後妻、おふさが尋ねて来る。彼女が来るのは決まって黄昏時で、こちらが借りっぱなしになっているものの返却を求めてくる。ある時サラサーテの話し声がそのまま入ってしまったという曰く付きの珍盤のことを言われる。タイトルはこのレコードに由来したものだ。「私」はそのレコードを見つけられず、後日又貸ししていたことを思い出し、取り戻したそれを直接返しにゆく。友が残していったというビールをもらい、そこで飲んでいると、おふさはその盤を蓄音機にかける。サラサーテの「小さな丸い物を続け様に潰している様に何か云い出した」声に応えるようにおふさは頷き、返答し、泣いている。
......たぶん、まだ読んだことのない人はこの筋を見てもさっぱりだと思う。筋はわかっても、これのどこが怖いのかはぴんとこないと思う。せいぜいが、ちょっと不思議な話、くらいの印象だろう。
ところで全然話は変わるのだが、昔フォークバンドのかぐや姫の演奏に入り込んだ霊の声をめぐる都市伝説を聞いた。コンサートの録音に「私にも聴かせて」という声が入り込んだとかで、しかもテープを逆再生してもおだやかじゃない音声になるという。その後、不治の病のファンの声とか、コンサートへ行く途中に交通事故に遭ったファンがとか、そんな尾鰭がついた。尾鰭というか、一種の合理的な解釈であり、オチである。これらのエピソードが付け加えられて、覚えのない声の闖入は、不気味な話からいかにもな怪談へ処理されてしまっている。しかしその処理は、なんとも不自然な逆再生のあたりから巧妙になされているのかもしれない。
これよりも大分後になるが、スガシカオの名曲「うきぶくろをもって」にも似たような怪談がつきまとう。とはいえこちらはライブ盤ではなく、スタジオ音源だ。入れた覚えのない女の笑い声が入っているというのだが、この曲、スガシカオが一気に曲も歌詞も浮んできた上、その歌詞が「海岸線の岬にじっと誰かが立ってるのはぼくの街に嫌気がさした自殺者かな こちらをじっと見つめたまんまいつしか消えている どんな顔で神様はそれを見ているんだろう」といった感じなので、まあなんとも本格的に怪談となっている。

「サラサーテの盤」の怖さはこれらのわかりやすい怖さとは別である。言い方を変えれば、頭でわかる怖さ、理知の怖さではない。感覚の、もっと奥の方、生理感覚や皮膚感覚に近い怖さである。
ところで「私」の感覚は鋭敏である。緊張感さえ感じるほどだ。小説の冒頭は、その後の展開とは一見何の関係もない、屋根の上を打つ物音の描写からはじまる。

坐っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっていると思った。ころころと云う音が次第に速くなって廂に近づいた瞬間、はっとして身ぶるいがした。廂を辷って庭の土に落ちたと思ったら、落ちた音を聞くか聞かないかに総身の毛が一本立ちになる様な気がした。

音の固さや大きさから小石と思う。そう思ったとき、ぞっとする。一体なぜ屋根に小石が落ちるのか。別に子どもがいたずらで石を投げているわけでもないし、そもそも投げるのだったらもっと強い音になりそうだ。屋根の上から誰かが小石をぽろぽろ落とすような感じ。ここで「私」が抱くのはこんな恐ろしさであろう。しかしこの音がどこからきたかといった話は、いまはよい。こちらの扉は概して、先のかぐや姫のようなわかりやすい怪異の道へ続いている。百閒の筆致はこちらの扉を周到に避ける。映画「ツィゴイネルワイゼン」では上でわたしが書いたような言葉を足して説明しているが、小説では一切触れない。ただそこへ来た妻に「まっさおな顔をして、どうしたのです」と言わせるだけである。怪談に、おばけの話に、百閒はしたくないのである。それよりも「私」がこの音を聴いてしまったこと、またそれを小石と捉えたことの方が重要そうだ。
「サラサーテの盤」は聴覚描写が豊かな小説である。書き出しは「宵の口は閉め切った雨戸を外から叩く様にがたがた云わしていた風がいつの間にかやんで、気がついて見ると家のまわりに何の物音もしない」で、小石のエピソードへ続く。聴覚の独特な鋭さが象徴的にあらわれている。独特というのは、鋭いわりに「気がついて見ると」というように、どこかぼやぼやしてもいるからだ。それでも「静かな往来に小さな女の子の足音が絡みついて遠ざかって行く淋しい音が残った」とか「家のまわりががたがた鳴っている中に、閉め切った玄関でことことと云う違った音がした」と局所的に妙に細かい。その極めつけがサラサーテの声を「小さな丸い物を続け様に潰している様に」と捉えるくだりであろう。ただ話していると言うのではない、なんとも不穏な表現だ。一人称で語られる妙に細かく、妙に鋭い聴覚描写に馴れたわたしたちには、この表現もことさらに怖がらせる表現とは思われない。「私」の聴覚には、はっきりと聞き取れぬ声がこのように言うよりないものとして迫ってくる。
曖昧さに耳をそばだてるうちに、徐々にその質感、音の手触りはわかってくる。だがそれ以上の秘密は何も打ち明けてはくれない。

対して曖昧さに切り込むのが、おふさである。彼女は「私」も忘れている借りっぱなしの専門書の題まで正確に告げてくる。おふさはしかし、明晰さを表しているのではない。むしろ完全に近い曖昧さを表している。曖昧にどっぷりとつかって生きているからこそ、曖昧のすがたかたちの正確な描写は可能になる。曖昧の外には決して理路整然とは響かぬこの言明が、タイトルというごく短い名前のうちに、唯一あざやかに結実される。「私」が触れるのはこういった曖昧さの感触であり、しかもおふさのやってくる夕暮れ時という時間帯は、すべてを曖昧のうちに強引に引きずり込む舞台となる。サラサーテの声に死んだ夫の声を聴くおふさは、だからこそ曖昧に到来したものと交信まで行ってしまう。
怖さはだが、ここにあるのではない。なんだか妙なものの到来それ自体は「私」も感じている。だから「小さな丸い物を続け様に潰している様に」と巧みに言語におこす。しかし、そう捉えたところで、それ以上のことは何もわからない。この宙づりの居心地の悪さにこそ、恐ろしさはある。それは冒頭の小石のエピソードと同様である。

なんだか曖昧なものの到来は、実はいたるところにある。たとえばわたしは、スガシカオの先の曲は好きで、昔から繰り返し聴いてきたが、件の都市伝説をネットで見る最近まで、笑い声のことは気づかなかった。屋根に落ちる小石のような音のように、多くの人はこういった到来を気に留めない。拾わない。だが「私」は気づいてしまう。鋭敏すぎる耳を持つ彼には、それが「小石のような音」とは思えるが、実際に何の音かがわからない。鋭敏な耳ならばちゃんとわかるのかもしれないが、鋭敏すぎる耳には、その拾ってしまう喩えが実際の音を覆い隠し、それ以上、それ以外、聴こえなくしてしまう。だから完全にはわからない。むしろ幻の影が落ちてくる。この茫漠とした居心地の悪さ。

こんにゃくとごぼうと異なる食感の具材を入れたのは、この感覚を出したかったからである。また「小さな丸い物を続け様に潰している」を口の中で再現し、味わうための方途でもある。内田百閒のぼやぼやした怖さ、遅効性の怖さを、後から追ってくる辛さであらわした。色合いもおふさのやってくるたそがれどき調である。合い挽き肉を使うのも、おふさと中砂の「逢い引き」をぼんやり眺める「私」の心地を表した。
ところでサラサーテの話し声が入る盤というのは、百閒の創作ではない。
https://www.youtube.com/watch?v=ABm7nMVyNh4
このカレーを食すときは、ぜひこのサラサーテの声に耳をすませ、ビールと共に、「私」の気分で食べてほしい。あるいはスガシカオの「うきぶくろをもって」を聴いて。

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