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蠍の火 まことのみんなの幸い
宮沢賢治 銀河鉄道の夜より
「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉くれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい。」
さそりはいたちに追いかけられて井戸に落ちてしまいました。その時、このように祈ったのでした。
さて、生きることと死ぬことって一体どんな意味があるのでしょうか。
草木は土に育まれます。
土は死んだ虫たちの死骸や枯葉、虫や鳥たちのうんこで出来ています。
草木を食べて暮らす生きものがいます。
その生きものを食べて暮らす生きものがいます。
食べられた命はうんこになって、やがて土になります。
食べられなければ、やがて死に、死骸は土になります。
そして、土からまた草木が生え、誰かの食べものになります。
自然の循環は、死(生きものの死骸や枯れた草木、うんこ)が生を育むことで成り立っています。
生きた命はいずれ死に、その死が他の命の糧となったり、新たな命を生み出したりしているのです。
こうしてみると、生きることは死に向かうための旅路であり、死は次の命を産む出すための神聖な行いであることが分かります。
誰かの命が死に、その死が誰かの命になっていく。
これが命の循環なのです。
私は、こうした命の循環をまことの命のあり方だと思います。
みんながみんなの命のために生と死を全うすることは、みんなの幸いだろうとも思うのです。
今の時代、人の死は誰の命になっているでしょうか。
人は他者の命を奪うことはすれど、自らの死については忌み嫌うばかりで、死の本当の意味を知らずに誰の命にもなれず死んでいっています。
地球に満ちる命の循環の輪。
私もその輪の一部分でありたいです。
自分の命を独り占めすることなく、死んだら、食べられて、誰かの命になりたいです。
やがて土に帰り、大地を吹く透きとおった風になりたいです。
蠍が祈ったように、私も空に祈ります。
「誰の死も無駄にされずに、取りこぼされることなく次の命へと変わっていく、そんな時代が来ますように」