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【反面教室】完成までの記録

※本記事にはネタバレが含まれますので、本編を読まれていない方はそちらを先にご覧ください。

2021年・夏の話

10月15日に発表された小説『反面教室』は、今の作風が確立されるキッカケになった作品である。話は3年前に遡る。私が高校生だった頃、大きな衝撃を受けた作品があって、そこからインスピレーションを受けた。その作品によって人生観が大きく変わり、普段何気なく手に取る食品にも闇が潜んでいるのではないかと訝しむようになった。本を読む時に私たちは無意識下で登場人物に自分を重ねているが、どこかで現実離れした場面に出会して、やっぱりこれは自分じゃなかったと安堵を覚えることがあるだろう。だけど、この本は、このミステリーは、それを許してくれなかった。気付かぬうちに逃げ道を塞いでいき、袋の鼠になった読者を盛大に笑ってくるのだ。後味が苦くてヒリヒリするのに、虜になってしまった。それが、どんでん返しの名作とも言われる湊かなえの『告白』である。私はこの本の陰鬱な導入に魅せられ、処女作『青春の亡骸』に継ぐ2作目のプロットを練り始めたのだ。

創作において大事だと思っているのは、いかに読者を早くその作品の世界観ないし雰囲気に馴染ませるかというところだと思う。上に挙げた著書はそれがすごく自然で、こんなものを書きたいと未熟な筆を走らせた。人の心がわからないなと心を悩ませる思春期の真っ只中にいた私は、自分がサイコパスだと信じて疑わなかった。そんな時に、風邪をひいた。学校の授業中に体調が悪化しすぎて保健室に駆け込もうとしたら、どうしてかその日は保健室が開いていなかった。私は仕方なく職員室に事情を説明し、早退したいと願い出た。すると、学年主任の女の先生が車で家まで送ってくれるという話になった。その時は純粋に良かったと思った。だけど、車に乗ってからが問題だった。外は雨が降っていて寒く、頭痛は内側から鋭利な刃物で刺されているように痛み、喉が腫れているのに咳が止まらなかった。だから私は車に乗せてもらっている間、眠ることにしたのだ。そんな状況に置かれながら、私は妖艶な夢を見てしまった。夢の中でいつも見ていたAVの女優が筆下ろしをしてくれているのだが、胴体はAVの女優でありながら、顔がその女教師だったのだ。どうしてそんな夢を見たのかは自分でも分からないけれど、私はその混沌とした快楽の夢に疑いを抱かなかった。夢中になって舌を動かし、手を動かした。だけど、家に着いても起きない私に、女教師が触れた。その瞬間、夢の中だけだった手触りが現実になり、私は致した。教師がそれに気付いたのかは今でも分からないけれど、その後俺は気まずくなってその先生と全く話せなくなってしまった。夢で見た女教師の素肌が脳裏から離れず、夢で聞いた妖艶な嬌声の記憶が、優しさで私を家まで送り届けてくれた事実に反して、不埒な印象を色濃く残していた。真面目に仕事に打ち込んでいるフリをして、本当はお気に入りの生徒と日夜情事を交えているという虚像を、女教師の中に見るようになった。人妻なのに、雨の中男子生徒と二人きりになる空間を避けなかったのは愚かだと、そう思った。だけど、これをホラー仕立てに描いたら、自分が好きな湊かなえの『告白』と似たような作品が描ける気がした。仕事に私情を持ち込み、生徒に依存する教師。これを描いたら怖いだろうと、拗らせた思春期の中で思いついたのだ。

同時期、ミステリにハマった俺は“ある本”を手に取っていた。ハードカバーで見るとまるで鈍器本のようなそれは、貴志祐介の『悪の教典』であった。文化祭の前夜に、生徒からも親からも信頼されていた教師が突然、担任を受け持つクラスの生徒を片っ端から殺めて廻る話だ。この本もなかなかに異常な内容で、スリリングなバイオレンス描写にすっかり魅了されてしまった。その後、彼の別の作品をブックオフで漁り、やがて『黒い家』に辿り着く。この時点で私は、『反面教室』の欠片を少しづつ拾い集めていた。そう、『告白』や『悪の教典』らしいラッピングを施した『黒い家』を作り上げようとしていたのだ。

当初、私は『ワタシの先生』という題名で本文を書き始めた。だけど、途中まで書いていくうちに、ちょっと狙いすぎに思えてきた。ミスリードと言えるほど大層なものではないが、歌方菜津奈を狂人として読者に擦り込む意思が見え透いてしまうと、途端に鬱陶しい気がした。私が書く小説の中で悪人とされるキャラクターたちは、みな無意識に罪を犯しているから狂っていると感じるのだ。そこに緻密な計算が入ってきたら、物語としての面白さは増幅するだろうが、その弊害にキャラクターが身近ではなくなってしまう。つまり、このバランスを追求した結果、そのタイトルはボツになった。

少し話が逸れるが、あなたは自分の人格をどのように形成してきただろうか。私の問いかけに対して、回答は3つくらいに分かれるはずだ。

1つ目。憧れの存在に少しでも近づけるように、ライフスタイル、価値観、ファッションなどを対象に寄せていったタイプ。

2つ目。自分がなりたくない存在と真逆の選択を日々重ねることで、自分の人格を見つけてきたタイプ。

3つ目。自分を取り巻く環境や風潮に流されながら、なんとなく生きてきたタイプ。自分の思想や拘りは存在せず、とにかく従順。

この3類型の中で自分を分類するのであれば、私は間違いなく二番目だ。そう、私の人生にはどの瞬間も「反面教師」がいた。そして、私にとっての小説は、「こいつみたいにはなりたくない」の堆積だった。ここまで読めば分かるだろう。『反面教室』の中に出てくるキャラクターはみな、心のどこかで“アイツにはなりたくない”と思っているのだ。人生において背負わされたくない役割を誰かに必死に押し付け合ってる様が、反面教室なのだ。それを知って読めば、少し滑稽にも思える小説だが、それでもやはり生々しさは残る。学生の頃から抱いていた日本の教育への違和感が、本作の随所に表れていると思うからだ。例えば、「自分がやられて嫌なことを人にするのはやめましょう」という教えは、裏を返せば「自分がされても嫌でないことは人にやっても構わない」という教えになりかねないとか。例をあげたらキリが無いが、そういう隙だらけの言葉で上辺を取り繕っただけの“教育”が私は大っ嫌いだった。だからこそ、これを書くことで警鐘を鳴らせないかと思ったのだ。

2024年・秋の話

最近は描きたいモチーフが見つからず、筆をとることも減った。刺激のない日々に刺激的な小説が書けるはずもなく、筋トレをしてストレスを発散するぐらいの平凡な人間に成り下がっていた。その間にもAIは理解できないスピードで発達していて、物語を書くことや無い画像を生成することができるようになったと聞いた。ChatGPTやGeminiなどが人間にしか作り得ないはずだったものを、作れるようになった。俺はこんな時代に人間が物語を書き続ける意味、創作をする意味を改めて考えてみた。そこで生成AIの作る物語には、多分まだ心情描写が足りないんじゃなかろうかと考えた。AIが参照するデータベースから、情景描写やそれらしい表現はすぐに吸収されるだろう。綺麗な言葉を並べれば、ライトノベル的文章は膨大に生み出せると思う。ただし、それを我々生身の人間が読んで感動するかと言えば別だ。AIは今や歌だって歌えるわけだが、それに心動かされ涙を流す人は見たことがない。つまり、人間は矛盾の塊だからAIが我々の思考回路に追いつく日はそんなに近くはないんじゃないかという話だ。「蛙化現象」なんてものはどうやっても式に表すことのできない心理現象だと思う。水商売をする者が性的搾取にキレ散らかしてるのも、本気でダイエットしてたはずのヤツが「チートデイ」とか言って自分を甘やかすのも大きなジレンマだ。こういった支離滅裂な部分まで理解して描き込むことは、今のAIには絶対できない。

ならば俺は、そこを徹底してこれからの創作のテーマにしよう。そう思った。過去の作品において、「人間の自己矛盾」をしっかり描き込めなかった作品を蘇らせたいとも思った。そして、俺は『反面教室』に再び帰ってきたのだ。

『反面教室』の再生作業に取り掛かる行きつけの喫茶店で、yonigeのリボルバーという曲が流れてきた夜があった。赤ペンが止まらない拙い文章を追いながら、さてこれをどう発表しようかと考えている時だった。「ああなりたくないと思っていた あいつに自分の片鱗を見る」という歌詞を聴いた瞬間、作者の俺自身が矛盾した状態で作品を発表したら面白いのではないかとひらめいた。アンチ・生成AIの俺が、自分の大切な作品の挿し絵を生成AIに任せてしまったら。これはこの上ない自己矛盾だと思った。

そして、AIとの共同作業が始まった。AIにプロンプトを入力すると、何かしらの画像が出力される。最初は思うように使いこなせなかったが、徐々に特徴を掴んできて、キーワードをどういうふうに打ち込めば思うような画になるのか予想できるまでになった。俺の使用したCanvaのAIは人物の生成もできる優秀なものだったので、いくつかの画像には不気味な被写体も登場した。前半の『告白』的パートで不気味な敵が歌方菜津奈だと思わせながら、後半の『黒い家』パートまで読者の熱を失わせず持続させることが課題だった。だが、この挿し絵があったことにより、次の章への期待値も上げていくことができたと思っている。この先、同じようにAIを取り入れながら創作をしていくのかどうかは分からない。まだその有能さを認めたくない自分もいて、けれどクオリティを上げるためにはAIを利用する必要がありそうだと考えている。今後の作品にも、期待してほしい。

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