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君は、ジャスミン・ウォードに出合っているか!

「歌え、葬られぬ者たちよ、歌え」を読み終えた。
以前に、「骨を引き上げろ」を読んで大ショックを受けて、即座にこの作家を読み続けようと決心したのだ。

まずは、手っ取り早くウィキでもご覧あれ。

新時代のフォークナー。
いや、失礼。
彼女なりのキャッチコピーが必要だ。ボクにはコピーを作る才能がない。
しかし、文学にも待ちに待った新世紀の始まりを感じさせてくれた。世界はAIでの第四次産業革命に湧くが、文学の世界にも来たのではないか!

「歌え、葬られぬ者たちよ、歌え」は、家族の物語であり、アメリカの現実であり、死者とその近くの人達の物語であり、現代が抱える問題を過去の歴史から紐解きながら繋がりを教えてくれる小説である。

ルポタージュ的な現実性からリアリティを導き出し、今ある現実、現代の問題を浮き彫りにしているところが彼女らしさであり、新しさを感じた。
無論その手の手法が過去にもあったというかもしれないが、この新作の場合ホラー的要素、現実離れした要素を、かけ合わせることで一気にそれらのあり得ない現実をあたかもありえそうな現実に思い込ませてしまう手法は彼女のモノだ。

前作でもそうであったが、ラストの方に向けての怒涛感は彼女の持ち味じゃないかと。
一気に畳み込み読者を引き込み、その世界が目の前で実際に展開されているかの如く見せる筆力。素晴らしいの一言。
この作品に関して言えば、正直登場人物が中々頭に入ってこなかった。だが読み進めていくにつれ、登場人物の成長(変化)を感じるに、再び前に戻ってどういった人物だったかを確認していくような読み方をするようになっていく。自分にとっては珍しい。

たかが数日の中での出来事で泣くだけの幼子でさえ変容の様子が伺える。幼子の彼女の歌は、彼女なりの訴えであり、言葉が充分に話せない代替行為としての泣き、や意味のない歌があるが、彼女なりの訴えを常にしていたのであろう。
彼女は意外とキーマンだ。家族をイライラさせたりもするが、癒したり、家族を窮地から救ったり、将来的には総合的な才能を持つ可能性もある。
ウォード的には「吐く」ことも歌の一種なのかもしれない。その後に浄化があるからだ。
一方、生きている男子は歌の印象はない。

ウォード自身が「葬られぬ者」は必ずしも死んだ人だけではないと述べているとのこと。生きながらも死んでいるような状態の者や、その中間層と定義は色々とあるのだろう。それであれば病で中間層にある母の歌の意味も考えなければならない。
生きているのに死んでいる人、っているよね。

彼女はこの素晴らしい小説を書き終えた。
邪推する。
あの世のことを実際何か知ってるんじゃないかと。w

まだ二作しか読んでないが、現実派なのだろうか、終わりに救いが感じられない。小説なんだから、チョットはいいところを見せてよ。

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