太宰治『三月三十日』太宰作品感想11/31
最近は連続で、戦中の太宰の作品について記述している。といっても、太宰が生きたのは1902から1948年。日中戦争期も含めると先の大戦は十五年戦争とも言われるほどで、彼は人生の3分の1は戦争期に生きたことになる。そんな戦間期の中でも、『三月三十日』は満州についての文章である。
本作はこのように、満州の人々に対してお手紙を書くという形式で始まる。1940年3月30日、首都を南京とする中華民国の国民政府(汪兆銘政権)が樹立された。大日本帝国政府は、重慶政府(蒋介石政権)との和平の可能性をこれによって殆ど打ち切った。本作の題名は、その時の日付にちなんだものである。
私の父方の祖母は、旧満州の玄関口、大連で第一子である僕の叔母を生んだ(物心がつく前に終戦になったということで、叔母に満州の記憶はないらしい)。歴史の一証言、というより私の父の当てにならない自説なのだが、今の浜松餃子の源流は、祖母が大連で学んできた餃子なのだそうだ。一応記録として、当てにならない父の自説をここに残しておきたい。
作品に話を戻そう。戦中といえば統制。有名なのは「ぜいたくはできないはずだ。」という文言。江戸の天保年間にも「諸事御倹約の御触」というものが出て倹約が奨励されたようだが、太宰は永井荷風がその御触れについて書いている文章を引用して、平和的な芸術が奨励されない時勢を嘆いている。
この文章だって、政権批判と取られてもおかしくない。それなりに勇気のいる文章であろう。しかし、作中の次のような文章がそれを相殺する効果を持っていたとも見える。
先の戦争について考え始めると、もうどこから論じたらよいかわからなくなって来る。数回前に「近代の超克」について論じたが、太宰の妻の発言からも、英米との開戦の裏側に中国との戦争が暗い影を落としていたことが読み取れる。だが、中国東北部に位置していた満州に対して当時の日本人が一種の夢を抱いていたことは事実であろう。開拓移民団として、多くの日本人が満州に渡った。松岡外相の「満州は日本の生命線」は流行語となった。最終的には満州を承認すべきか否かを巡って国際的議論となり、国際連盟脱退の引き金となってしまった。真珠湾攻撃の前、アメリカは「ハルノート」という形で中国大陸からの全面撤退を求めて来たが、大事に育ててきた満州という地を日本が手放せるはずはなかった。
満州とは何であったか。その問いに対する答えは、当時の作家の手記などをかいつまんで読んでも得ることはできないかもしれない。この問いは、日本人にとって既に永遠の問いなのである。