働いていて本が読めないなら、まず本を買いなさいー乱暴だけど必要なマッチョイズム読書論
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んで
ちょっと前に流行った三宅香帆「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を最近、読んだ。
その本自体は日本の働き方や、自己啓発の流れを綺麗に追っていて興味深い一冊だった。
けれども、その本は今この世界にいる私たちは読書に対してどのように取り組むべきかあまり提示していない。結局最後の結論は、本が読める程度に余裕のある社会を作ろうという変革を求めるものだ。週3日の正社員だとか、残業を減らすべきだとか。
そのような力を持たない私たちにはその世界はユートピアに映るだけで何も意味がない。
読書論を労働観と結びつけるのは非常に良いものであるけれど、読書をしたいと願っている読者にとっては拍子抜けな感じが否めない。
読書論は、最近この本以外にも話題になることが多い。たとえば現代思想の2024年9月号は「読むことの現在」とあるように読書についての特集が組まれている。
おそらく、多くの人にとって読書をしたいという願望は強く存在するのだろう。
正直、読書をしたい人に対して明確な答えを出すのは難しい。
けれど、まず間違いないことがある。
本を買いなさい、そして一冊はカバンに潜ませて置きなさい。
言い方は悪いけれど、本が読めない人に対する対処法はそれしかない。
読書マッチョイズム
ちょっとtwitterで話題になったけれど、読書は筋トレのように、潜在的にマッチョイズムがある。
難しい本を読むためには、その本を理解できる、飲み込める土壌を作らないといけない。そのためには本を読んで、読書筋力をつけなければならない。
重いベンチプレスを持ち上げるためには、ちゃんと筋肉をつける必要がある。
そして大体の読書家は、本が読めない人に対して本を読めばいいじゃんと言う。それが体育会系の強要に似ているという指摘。
そういうものとして読書マッチョイズムを使う。twitterでは大体その文脈で使われている。
補足 読書マッチョイズムの本来の意味
ちなみに、元々の読書マッチョイズムの意味は少し異なっていた。おそらく、その言葉のルーツは芥川賞を受賞した市川沙央氏の発言が元だ。
彼女は重度の障害者で、身体的不自由により読書が非常に困難だった。本は意外と重い。文庫本なら150グラムぐらい、ハードカバーなら300グラムはあるだろう。健常者は読書を問題なくできるが、身体障害者は困難を伴うと彼女は主張した。
現代思想2024年9月号ではそのほかにも、ディスレクシア(識字障害)、視覚障害者のための読書など、さまざまな理由で読書にハードルのある人たちの話が載っている。
元々、読書マッチョイズムは健常者が抱いている本は誰でも読めるというテーゼが、さまざまな障害を持つ人にとっては困難であるということを揶揄して、読書マッチョイズムと呼ばれるようになった。
twitterではその文脈が消えてしまい、健常者の人々の中で、読書家があまり読書をしない人に読書を強要するのをある種のマッチョイズムだと批判する文脈で使われてしまうようになった。
読書はしたくないなら、しなくていい
読書マッチョイズムの議論において、それを騒ぎ立てているのは、読書家を疎ましく思う本を読めていない人たちである。
読書家たちが、読書の行為をいいものだとする事は非常に多い。実際自分も知的営みとしていいものとして捉えている。
ネットにおいて文章が上手い人の意見の方が広まりやすいし、そういった人は大概本を読むことが好きだ。だからこそ、ネットの意見では本を読むことに賛同する人が多い。そして、今まで読書が苦手な人たちの意見を黙殺してきたのは確かに事実だ。
だからこそ、一部界隈で読書マッチョイズムの議論が活発に行われた。
そして、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」も本を読みたいけれど本が読めない人を多く引き寄せた。
そこにあるのは、やはり本を読むことはいいことだとする教養人の思想だろう。
でも自分は思うのは読書をするなんて、結局趣味の一つでしかない。
ここで少しピエール・ブルデューの文化資本論を触れておこう。文化はハイカルチャー、ローカルチャーに分かれ、それを好むかはその人の階級に依存する。つまり、階層が高い人はハイカルチャーを好み、低い人はローカルチャーを好む。
彼の議論は、人の好みすらも階級によって決定されるという議論である。おそらく、読書はどちらかというとハイカルチャーに分類されるだろう。多くの知識人に、階級の高い人々に好まれたがゆえに権威付けされた。
あくまでそれだけなのだ。ローカルチャーは大衆に好まれるため、権威付けがない。だからといって、そのローカルチャーに意味がないわけではない。
趣味に優劣はない。それはあくまで、誰が好むかというだけだ。
読書が特段、趣味として優れているわけではない。ただ、階級の高い人々に好まれているだけで。
だから、別に読書を無理にする必要はない。他の趣味と変わらない程度の趣味なのだ。
それでも本が読みたい人へ
本が読みたい人への提言は非常にシンプルなのだ。本を読みなさい。本がなければ本が読めないから。
一応本が読みたい人は二つのタイプがあると思う。
・本をあまり読んだことがないけれど本を読みたい人
・本を前まで読んでいたけれど、最近読めなくなった人
前者の人には、とりあえず本屋を回って面白そうと思った本を取り敢えず買おう。
後者の人は、前に読んで内容を忘れている本を本棚から引っ張り出して読み直そう。それか新しい本を買いに行こう。
もう少しそれぞれのタイプに対して、具体的なおすすめを話していこう。
本をあまり読んだことがない人へ
すごい雑なことを言えば、本屋で棚積みになっていて面白そうだなと思った本を買えばいい。正直、売れている本がいい本かは保証できないけれど、売れてる本は少なくとも読みやすい本ではある。
読みにくい難解な本であればあまり売れないし、売れている本ならネットで話題になっているだろう。その人たちの議論を追うことも簡単だし、ビジネス本などだったらある程度あらすじをまとめている人もいるかもしれない。それを知った上で読むと、多分読みやすくなる。
何がいい本なのかわからない、よくない本を読みたくないと思う人もいるだろうけれど、ある程度本を読まないと本の良し悪しはわからない。
最初はとりあえず目に入った本を読んで、本を読む習慣を作った方がいい。
本が最近読めなくなった人へ
本を読めなくなったなら、また本を読むしかない。
自分も数年間本を読まなくなって、もう一度本を読もうと思ったら全く本が読めなくなったことがあった。私は学問についての本を読めるようになった今でも、小説がうまく読めなくなっていたりする。
本を一度読まなくなると、加速度的に本が読めなくなる。
だから、本を読みたいなら本を読み続けないといけないのだ。一度本を読むのをやめてしまったら、もう一度読めるようになるのに時間がかかってしまう。
せめて最初に読むのは比較的軽い本がいいだろう。純文学よりは軽い小説、専門書よりは簡単な新書。
あと、読書リハビリとしていいと思ったのは雑誌だ。雑誌コーナーを見ると、こんなジャンルに専門化した雑誌があるのかと少し感心する。
最近見つけた良い雑誌なら、「本の雑誌」だ。
「本の雑誌」は毎月「本」についてのコラムや特集が組まれている。今回は国会図書館特集。国会図書館は単に本を読む場所じゃなくて、ほかにも楽しみ方があるよと紹介していた。
この本は見開き一ページぐらいの小さなコラムが多かったりするので、興味を持った記事をフラーっと読むのがちょうど良かったりする。
「麻雀漫画50年史」の著者が、どのように国会図書館を利用したのかという記事もあったりする。
あとは小説家や文筆家の人に10000円を渡して何の本を買ったのかという記事もあり、なかなか読みやすくて面白い。
本の良さを知るためにも非常に良い本だった。こんな読み方があるのかと知る上でも読んでいて楽しい。
自分はこれを買って面白かったので、数ヶ月分のバックナンバーをその後買った。
一応現代思想も面白いなと思ったけれど、重たい記事が多いのであんまりお勧めできないかもしれない。
今だから言いたい読書マッチョイズム
結論としては本が読みたいなら、本を読めばいい。小手先のテクニックはあるけれど、本を読めるようになるには本を読まなくてはならない。
もちろん、仕事が忙しいとかそういった苦労はあるだろう。でも本を読みたいと思うなら、ちょっとした隙間時間で本をとりあえず開いて読めばいい。
とりあえず手元に本を持っておいて、twitterを開く時間があるなら本を読む。
電子書籍なら、スマホを見るついでに読めたりするし意外と便利だ。満員電車では物理的な本は開きにくいけれど、電子書籍は読みやすい。
kindle unlimitedならサブスクで本が読めたりするので、意外とお勧めだ。昔話題になったビジネス書は結構あったりする。小説も意外とある。原田マハとか
読み放題なので、本を買うよりはハードルが低いだろう。
本が読めなくなっているなら、本を読むハードルを下げて読むしかない。
本を読まないと、本を読めるようにならない。
読書はマッチョイズムに満ちている。それは当然で、本を読むことで本を読む力を養っていくしかない。
簡単に本を読めるようになるテクニックはない。読書の潤滑剤は、今までの読書経験だけだ。
本が読みたくないなと思ったら読まなくてもいい。読書はあくまで趣味の一つだから。
別の他の趣味が溢れる現代だからこそあえて本を読みたいと思った人は、苦しいかもしれないけれど本を読む覚悟を少しは持つ必要があるかもしれない。