この書物では、ニスベットが、心理学実験を紹介しながら、西洋人が分析的(木を見つめる)思考をもち、東洋人は包摂的(森全体を見渡す)思考をもつことを、西洋人の立場から、描き出しています。
今回の記事では、人権の考え方に触れるところを取り出しておきます。
さて、心理学実験によって、中国人も日本人と同じように、森全体を見渡す思考をもつ傾向にあることが改めて分かったのですが、それでも、私には、言語学的な違和感があります。
東洋人なら、状況を把握してから動作する主体を思考する傾向にあるので、文末に動詞をもってきた方が素直な言語活動ができるのに、なぜ、中国語の語順は、日本語ではなく、英語と同じなのか。
ただ、この違和感を解消する仮説があります。
秦の始皇帝はバクトリア人だったという仮説です。
バクトリアという国は、アレクサンドロス大王に植民地化され、焚書坑儒を経験しています。バクトリアは後に独立して、混乱していた中国を侵略したのです。ローマ帝国がヨーロッパに統一性をもたらしたように、秦は中国に統一性をもたらしました。その際、始皇帝は漢字を統一しただけではなく、西洋人が分かりやすい語順にしてしまったのではなかろうか。
それで、中国人は言語活動によって素直な思考ができずにいるのでは?
以上、言語学的制約から自由になるために。