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言語の差異と社会制度

言語には差異しかない、と述べる言語学者ソシュールの視座は、私が掲げる七つの視座のうち、「第四の視座」に相当します。次の図です。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

ソシュールが重視するラングは、言語の記号的側面を指しています。彼は、その人為的な記号体系に、社会制度を写し見ていたのです。

どういうことか。

例えば、大乗仏教の六波羅蜜が、社会福祉の実践を促していました。六波羅蜜そのものは、菩薩が涅槃の境地に至るための六つの徳目ですが、それを心掛ける僧侶が、コトバの価値を揺さ振り、社会に貢献していたのです。

また、ルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では、十二弁の蓮華(ハートチャクラ)を開花させるのに必要な六つの行が記されています。それも、社会制度の安定には欠かせません。

つまりは、社会制度をあらしめるための徳目があり、その徳目の影響が及ぶ範囲内で、コトバの価値が揺さ振られているのです。

私のイメージとしては、「第四の視座」の薄い灰色で表す言葉がその徳目です。その影響が及ぶ範囲内で、名詞群や動詞群が揺さ振られています。

さて、丸山圭三郎『ソシュールを読む』で、次の記述を見つけました。

ラング内において何故にコトバも事物も惰性化するのか。
まず第一に考えられる原因は、コミュニケーション、流通システムの保証であり、とりもなおさず秩序の維持のためであろう。これはサルトルも言っているように、集団が集団としての自己保存を願うが故に身につけざるを得ない惰性そのものに由来する。――p.318

ラングと社会制度のつながりを、意識し直してみてはどうだろう。

以上、言語学的制約から自由になるために。

以下は参考文献です。