街の英知を生きる
魚類が海の英知を生きるように、
鳥類が森の英知を生きるように、
人類は、街の英知を生きることができるだろうか。
そもそも、英知ある街を共同創造しているだろうか。
ニューヨーク市の街などは、大自然を排除した社会づくりを模索する西洋人の模範解答としてあるが、その街の英知を生きると、人体の機能が退化するので、退化を補完する人工知能(AI)に頼らざるを得なくなります。
もしも、ネイティブアメリカンが言うように、人体が動物植物鉱物の英知が集約した物なのだとしたら、自然な人体は、街についていけないよね?
大風呂敷を広げてしまったが、結局、各個人が、自らの内に英知を感じ取る能力を育まねばどうにもならない。その能力を育てた人類の共感を基盤としなければ、英知ある街の共同創造はできません。
物事を考える私自身に、英知が、内側からやって来る。
たとえば、物事を奇数(5つとか7つ)に分類するときは、物事のプロセスを見出そうとする自分に成り、物事を偶数(6つとか8つ)に分類するときは、物事のシステムを見出そうとする自分に成ります。
プロセスやシステムを見出そうとする英知が、内側に感じ取れます。
英知というものは、感じ取るものではありませんか。
そのように感じ取れないうちは、分類が、言語ゲームにすぎなくなります。日本語なら、日本語ならではの分類思想に染まり、形骸化しているかもしれない思想を、無駄に背負うことにもなります。
言語は、英知を、呼び起こし、隠しもする。
誰もが内側の変化に気づく能力を持って生まれます。それがなければ、健康を維持することができません。しかし、その気づきは、免疫体系が身につく14歳までには、意識に上らなくなります。
とくに、言語を習得して、言語観に頼るようになると、聴いたり視たりする能力が衰弱し、内なる感覚が鈍ってしまいます。
たとえば、聴覚内容は、マヤ文明の農耕神「chac」を呼ぶ発音を「チャク」「シャカ」「サカ」などとカタカナで聞き分け、視覚内容は、漢字のつくりを覚えるように部品を組み合わせた絵に見分けてしまいます。
英知ある街を共同創造するために、
言語学的制約を超えて、内なる英知を感じ取ってはどうだろう。
・・・スピリチュアルな探究はつづく。