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淡野安太郎『哲学思想史』にて

この書物は、アンリ・ベルクソンに詳しい淡野安太郎による、哲学の歴史です。ベルクソンの哲学および思想で、総括されています。

 前世紀後半のめざましい自然科学の発達によって物質の世界がすみずみまで究明せられその地盤がいよいよ拡大強化せられるのを前にして、ベルクソンにまず課せられた問題は、こういう厳然とした物質に対して精神が如何にしてその独立性と尊貴性とを主張し得るか、ということであった。ところでベルクソンが――すべてのものをばらばらに分解してしまう「悟性」の対象界である物質の世界に対して――知的同感ともいうべき「直観」の対象界である純粋持続の世界を明確に区別し、それこそが真の実在であるゆえんを力説して上の課題に答えたことは周知の通りであるが、しかしながら二つの世界をそれぞれの原理によって成り立つものとしてただ並立的に提示するだけでは、まだ問題は解決せられてはいないのである。従ってベルクソンにとってのつぎの問題は、一応領域を異にするものとしてそれぞれの独立性が認められた物質と精神とが、如何に相互に交渉し浸透し合うかということであった。そういうわけで、高く樹立された形而上学を経験の地盤の上へもち来すことによって形而上学的実証主義ともいうべき方向に自己の思想を具体化することが、一八九六年の『物質と記憶』につづき二十世紀に入ってからのベルクソンの歩んだ途であった。ベルクソンはフランス哲学一般の特色を述べた箇所でいっている。「一つの観念を徹底的に考えることは、あまりにたやすい。難事はむしろ必要な所で演繹をとどめ、諸特殊科学の研究とまた絶えず実在と接触を保つことによって、その観念を適当に屈曲させることである、」と。そしてさらに言葉を続けていう。「かような意味においての哲学は実証科学と同じ精密さをもつことができる。そして科学と同じように、哲学はひとたび獲得された結果を次々に附け加えつつ絶えまなく進歩することができるであろう。哲学はこういうふうにして――決して諸学大集成であるなどと主張するわけではないけれども――やはり一つの大きな綜合的な努力なのである、」と。
 もちろん、綜合のない分化が盲目であるように、分化のない綜合は空虚である。真の綜合は、分化を内に含むことによって、分化が進めば進むほどそれだけ却ってその内容を豊かならしめるような綜合でなければならぬ。そして、こういう意味においての綜合的精神こそ、現代哲学いな今後の哲学の中核的推進力とならねばならないのである。

――pp.302-304むすび

ベルクソンのように、神秘体験を肯定する学者は、日本の大学関係者から、「あっち系の人」として、敬遠されます。だが、「あっち系の人」を敬遠していたら、シャーマンが関与する言語の起源には迫れませんよ。

以上、言語学的制約から自由になるために。