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グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』にて(大要)
つながりゆくパターンに美を感じ取るベイトソンは、第Ⅰ章で、文法教育のあり方に言及しています。つながりを大事にする文法教育です。
みなさんも学校で、名詞とは〝人や場所や物の名前〟であると教えられた経験がおありだろう。文の構造を分析していく退屈極まりない授業を覚えておられるだろう。あんな教え方を続けないでもいいではないか。名詞とは述語とある関係を持つ言葉、動詞とはその主語である名詞とある関係を持つ言葉、という知識を今日の子供たちに与えられないことはあるまい。定義の基盤に関係を据えればよい、そうすればどんな生徒だって、「〝行く〟は動詞である」という文がどこかおかしいことに気づくはずだ。
文の構造分析の退屈さ、そして後にケンブリッジでやらされた比較解剖学の退屈さを、私は忘れていない。実態から遊離した授業につき合わされるのは苦痛でさえあった。結び合わさるパターンについて、教えられなかったものだろうか。すべて情報伝達にはコンテクストが必要だということ、コンテクストのないところに意味はないということ、コンテクストが分類されるからこそコンテクストから意味が付与されてくるのだということを教えられなかったものだろうか。成長も分化も必ずコミュニケーションによって制御されること、動植物の形態はメッセージが一つの形をとったものにほかならないこと、言語それ自体コミュニケーションの一形態であること、インプットの構造は何らかの形でアウトプットの構造に反映されるということ、生物体の構造はすべてメッセージをつくっていた物質的材料が変換された姿にほかならず、そこで起こっている形づけがコンテクストに依存するのだとすれば、生物体構造の中にも文法に相当するものが必ずあるはずだということ、そしてコンテクストによる形づけとは文法の別称にほかならないということ――こういったことを教える授業が不可能だというはずはないではないか。
第Ⅱ章から第Ⅵ章までは、第Ⅶ章で説かれる「フォームとプロセスとを行き来する弁証法的ジグザグ梯子」と同じように展開しています。その展開に、ストカスティック・システムと呼べる特徴があるとのこと。
ストカスティック[散乱選択的]stochastic 出来事の連続がランダムな要素と選択的プロセスの両方を兼ね備え、ランダムに起こった結果の一部しか存続を許されない場合、それを、ストカスティックな連続という。
ランダムな要素から選択しなければ、新しいものは生まれないとか。
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ストカスティックも、次の図の右側のように五段階で読み取りたい。
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そして、最終章は、娘さんとの対話形式で書かれており、ベイトソンが想定するつながりゆくパターンの特徴を、娘さんに言わせています。
ふーん。自己修復的トートロジーは球体である。多次元的球体である、か。
それで?
たぶん、その多次元的球体は、ドーナツ状のトーラス構造です。
以上、言語学的制約から自由になるために。つづく。