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仏教の八正道を開く

およそ2500年前に説かれた八正道はっしょうどうは思考内容を整える教えです。だからといって、八正道のうち「正思惟しょうしゆい」だけを意識しても思考は整いません。他の「正見しょうけん」「正語しょうご」「正業しょうごう」「正命しょうみょう」「正精進しょうしょうじん」「正念しょうねん」「正定しょうじょう」の七つも、同じ哲学的平面に乗せることで思考が整います。

およそ2500年前といえば、西洋では、ラテン文字からアルファベットが派生する時代であり、東洋では、漢字が統一される直前の時代です。

ことばがもっぱら声であるような文化においては、いったん獲得した知識は、忘れないように絶えず反復していなくてはならない。知恵をはたらかすためにも、そしてまた効果的にものごとを処理するためにも、固定し、型にしたがった思考パターンがどうしても欠かせなかった。しかし、プラトンの時代までには、ある変化がすでに起こっていた。というのも、ギリシア人は、ようやく書くことを自分のうちに実効的に内面化したからである。ギリシアのアルファベットがおよそ紀元前七二〇年から七〇〇年ころに作られてから、ここにいたるまで数世紀がたっていた。記憶をたすけるきまり文句のなかにではなく、書かれたテクストのなかに、知識をたくわえる新しい道が開かれたのである。このようにして、精神は解き放たれて自由になり、より独創的で抽象的な思考をめざすことが可能になった。

――W-J・オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)p.57

当時は、世間様に従って生きるしかなかった民衆が、自分の頭(マインド)で言語活動をするようになり、世間とのあつれきを生じていました。

「心」という漢字は、孔子が活躍するほんの五〇〇年前まではこの世に存在しませんでした。で、ある日、「心」が出現した。王朝がいんからしゅうになったころです。その突然の出現に人々は戸惑い、「心」をうまく使いこなせないままに五〇〇年間を過ごします。そんなとき孔子が現れて、人々に「こころの使い方」を指南した、その方法をまとめたのが『論語』ではないか、そう思いました。それならば『論語』には、現代にも役立つ「こころの使い方」が書かれているに違いない。そんな視点で『論語』を読み直したのです。

――安田登『身体感覚で『論語』を読みなおす。』(新潮文庫)p.4

そんな時代に、世間のしがらみから解放される(出家する)個人のための、きわめて個人主義的な八正道が説かれたのです。しかし、それは、世間から個人(自灯明)が救出されるまでの教えです。

さて、私は言語意識を探究するために、八正道を自分の言葉に置き換えて、次の図(第五の視座)のように組み込んでいます。

「正見」と「正思唯」は、「観察」と「思考」に、置き換えます。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

「正語」の正しく語る能力は、言語社会に「適応」する能力です。
「正業」の実践は、「調和」するところで、カルマを刷新します。
「正命」は意識を「運営」にまで広げて、目先の生活に臨むこと。
「正精進」は努力している振りではなく、共同「創造」すること。
「正念」は人生を、やり過ごすのではなく、「経験」にすること。
「正定」は精神を「変革」し、拠り所となる自己を確立すること。

以上、言語学的制約から自由になるために。