稲垣良典『人格の哲学』を読む
トマス・アクィナスに詳しい著者は、トマスの見解にある「神的ペルソナ」のあり方を、哲学的に「交わり・即・存在」と呼んでいます。
世の中には、言葉で理解したい人だけでなく、音響や映像で理解したい人もいます。私は言葉よりも映像で理解したい人なので、哲学をデッサン、思想をデフォルメ、と喩えて、言語能力を補完しているのだが……。
次に掲げる引用文は、人格のあり方に触れるところです。音響に強い人ならリズムのあり方をイメージしながら、映像に強い人ならフラクタルのあり方をイメージしながら、読まれると、わかりやすいと思います。
人格を人格たらしめるのは、ひとりの人間が他のすべての個的存在、とりわけ人間という種に属する他のすべての個人から区別された、この個的存在、個人であるということではなくて、個々の人間が精神であり、理性的本性を有することである、という「人格」理解は、人格についての極めて重要な洞察への道を開く。それは、人格は交わりにおいて存在し、生きる存在である、という洞察である。
さきに、人格はたんに何らかの全体(論理学的、生物学的あるいは社会的全体)の部分ではなく、それ自体、何らかの、しかし真実の意味で(単に比喩的ではなく)「全体」であることを強調した。人格が「全体」であることは、その精神的・理性的能力(認識と意志)が、あれこれの特殊的なものではなく、すべての存在するものをふくむ全的なもの、つまり全的存在や全的善を対象とすることに対応する。そのような「全的なもの」とは無限に多数のものによって共有されうるものであり、ここからして人格の交わりの可能性が帰結する。人格は「全的なもの」に関わるその固有の働きにおいて、自らを無限な交わりへと開くのである。
われわれは通常交わり(communication)を「伝達」「通信」などの意味に解しているが、その本来の意味は、何かを共にすること、とりわけ真実に価値あるものの共有、わかち合いである。そして真の厳密な意味でわれわれが共有できる価値あるもの、他者とわかち合い、共に享受することのできる価値あるものとは、物質的な価値あるもの、たとえば金銭、土地やその他の財産、あるいは様々の快適で役に立つもの、たとえば才能、性質、名声……などではなく、精神的価値としての真理、善、美、そして最終的にはわれわれ自身の存在である。そして、人格が交わりにおいて存在し、生きる存在であるのは、人格が人格として営む固有の働き、すなわち知的で精神的な認識と愛が、無限に共有されることの可能な精神的な価値を対象とするものであることによる。人間は生物としては、この目に見える自然界に環境との関わりのなかで生きているが、人格としては精神的な価値を共同で探究し、わかち合い、共有する交わりの世界で生きているのである。――pp.158-160
そこにある人格のイメージは、リズムやフラクタルと同じように、スケール(尺度)を変えれば、部分にも全体にも成れるイメージです。
・・・言語化は・・・大変だな・・・
以上、言語学的制約から自由になるために。