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方言と敬語についての試論
たとえば、大阪出身の人が東京に住むようになって、すごくきれいな標準語を身につけているケースというのをよく目にする。東京から言語的な隔たりが大きければ大きいほど、言語の標準化は首尾よくいくようだ。地方から出てきた大学生でも、九州とか東北の出身の人は、1年もすればほぼ見分けがつかないくらい標準語に習熟する。これは要するに、東京弁を「外国語」として学ぶからだ。
地方出身者が標準語を学ぶ機会は、「大学入
バカは一生わからない
何かを「わからない」という状態にあるとき、つまり「無知」である場合、必ずそこには「2つの無知」がある。一つは「知られるべき対象についての『知識の欠如』」としての無知。これは一般的な意味での「無知」だ。もう一つは、「『対象についての知識の欠如』に対する無自覚」である。つまり、対象についての知を持たない場合、自分がその知を持たない(無知である)という事態には気づき得ない。これを便宜的に「非知」と呼ぼう
もっとみる「自然はよくない」とあえて言ってみる。
「人工物、よくない」「自然、いい」――きっとそうでしょう。でもあえて「自然、よくない」と言ってみる。
たとえば食品。
巷に流布する「自然な食品こそが健康につながる」という言説、あるじゃないですか。自然な食品こそが正しい、という話の背景にあるのは、食品の工業化、マクドナルド化に対する危機意識だろう。
こんなもの食べてたら、肥満になる、病気になる、アレルギーになる、と。だから、無農薬、無添加、遺
「他人の頭で考えよう」とあえて言ってみる。
自分の頭で考えることが大切だ、と言われる。もちろん、そうでしょう。でも、あえて「人の頭で考えよう」と言ってみる。
ショーペンハウアーという19世紀ドイツの哲学者がいる。彼は『パレルガとパラリポメナ』という本のなかで「読書について」と題した論考を書いている。つまるところ、これは「読書批判」のために書かれた文章だ。
彼のロジックはこうだ――読書というのは、他人の頭に考えてもらう行為にほかならない。
カラダにいっぱい線を描こう
カラダにいっぱい線を描こう
そしてぼくだけが消えた
だからだろうか?
線だけが宙に浮いている
文法を合わせる(試論)
相手と違う文法で話さないこと。
さもないと、あなたはただのバカだと思われる。
「知的である」ということは、「自在に自分の文法を変えられること」と等しい。と敢えて言ってみる。
「こいつは自分の言葉を解さないバカだ」と思われた瞬間に、あなたの知性はそこまでのものとなる。
人にはそれぞれ優先事項がある。そして、その優先事項を土台とした言語体系を持っている。
知的であり続けるためには、それぞれのコン
父のスピードメーター
一人暮らしになり、1カ月ちょっと。車を運転していて、ふと気づいたことがある。車の平均走行速度がだいたい時速10~15キロ増しくらいになっているのである、奥さんや子どもが家にいたころと比べて。
あ、念のために注記しておくと、奥さんは出産のために里帰り中なのだ。妻と子に逃げられて、自暴自棄になっているわけではない。
いや、ひょっとしたら自暴自棄になっているのだろうか。一人で暮らしていると、明らかに
イッカクの身体を、真っ白な灰に
このイッカクの身体を
真っ白な灰になるまで焼いてみる。
その粉にいくつかの顔料を
混ぜ合わせたものを少量の水で溶き、
ペースト状になるまで煮詰める。
それを唇に塗った人たちが
煽情的な打楽器のリズムに合わせて踊り出す。
男も女もみな、意識という意識が溶け合い、
どろどろになる。
そんな夢を見た。
デンシャでドンジャラな話
ぼくが通勤中にやっている遊びの話。
ぼくが毎朝乗るのは東急田園都市線。
首都圏でも三本の指に入る乗車率を叩き出す悪魔の箱である。
当然座れない。ギュンギュンがデフォ。ヘタするとギュンギュンがックンックンになって空中に浮くこともある、持ち上げられて。
そんなとき、奇跡が起きた。
座席――いつも決して座れない7人がけの座席――にいる7人の乗客が、そろっていたんですよ。
全員ハゲてて、全員メガ
肉化、あるいは、コールドスリープ
過去の自分からの手紙──。
君はいま目を覚まし、いつもの1日が始まったような気でいるだろう。
眠りに就いたのは数時間前のこと。これまで何度もそうしてきたように、ベッドから身体を起こす。さて、会社に行く準備でもするか、なんて。
でも、実際はそうじゃない。
君はそのことを知っているはずだ。君が眠りについたのは、気が遠くなるくらい大昔だってことをじきに思い出すはずだ。
ただ、それはあまりにも実感から
はじめから15歳の幽霊たち
ぼくはヒトではない。親に聞いたところではそれが真実らしい。
これまで16年間生きてきた。つもりだった。人間なんか大嫌いだ。いっそのこと人間なんかに生まれなければよかった。そう思いながらここ数年は過ごしていた。15歳の誕生日に自殺しよう。なんて考えたこともあった。それはちょっとしたアクシデントで実行には至らなかったのだけれど。
「お前が人間でないとすると…何者なんだ?」とあなたは聞くかもしれない
存在論的ミルクレープ
やはり世界は多層的だった。
しかもそれらは、すべて全く同じ大きさで、かつ、時を共にしていた。1ミリもずれることなく、ぴたりと重なり合っている。重なっているが、ギリギリのところで触れ合っていない。存在論的ミルクレープ。クレープ生地は無という名の生クリームで隔てられる。だから各層の存在者たちは、別の層の存在者と擦れ違い続ける。原理的には決して出会わない。それが前時代における社会的通念だった。
だが
文字だけの夢を見たことある?
ぶっ飛んでる(とされている)人にインタビューする機会があった、仕事で。
その人がいきなり、「私は『言語だけ』の夢を見るんですよ」という話をはじめた。同席していた他の取材者たちは、「ほーっ」「それは不思議ですね~」と言って驚いていた。
でも。ぼくはちょっと別のことを考えていた。というのも、ぼくも「言語だけの夢」を見た経験はけっこうあったからだ。それが珍しいことなのかどうか、気になっていなかったと
「ん? ぼくが奥さんと別れるって?」
一つのピロートーク。
「好きです、付き合ってください」
「ん? いいよ」
「え? でも奥さんもお子さんもいるんですよね? いいんですか?
「ん? いいよ」
「え?」
「ん?」
「え? 別れて・・・くれるんですか? 奥さんと」
「ん?」
「え?」
「ん? 別れないけど?」
「え?」
「ん? だって奥さん超仲いいし。子ども超かわいいし」
「え? じゃあ私、どうすれば?」
「