道具を一切使わないということ
ロックバランシングを説明する時、「道具も接着剤も使わず、人間の素手だけで石を積み上げる」と言います。この行為の厳密さについて考えてみました。
例えば、室内で積む「宅積み」。制作に取り掛かれば使うのは素手だけですが、よく考えると、その前に素材となる石を自動車という道具で運んでいるということに気づきます。
ロックバランシングであることには間違いありませんが、厳密には道具を一切使ってないとは言い切れないわけです。
河原とか浜辺でも、例えば石を運ぶために袋やバケツ、リュックなどを使う場合はやはり道具を間接的に使ったことになります。
作品を作ったあと、見栄えを良くするために、水をかけるのは良くあることです。この時、手で水をすくってかけるだけでなく、ジョウロや霧吹きを使うならば道具を使ったことになります。
作品を作る工程は素手しか使っていませんが、事前、事後に結果的に道具を使っている場合はある(自分も)。
そう考えた時、「自然の中の不自然な自然」というエントリで表明した「生物個体が持っているポテンシャルだけで取り組むことで、自分が自然界の一員的な存在として自然の中にいる」という観点をより深く味わうための行為を意識しました。
素っ裸の自分をイメージし、自分の手足だけで石を探し集め、自分の手足で運べる場所で積む。最初から最後まで一切道具を使わないで出来た作品が、「一つの生物である自分が自然界の他の生物と同じように自分の力だけで成した行為」と曇りなく言えるように思います。
ロックバランシングにおいて、そこまでの厳密さが必要だとは言いませんしそう主張する気もありません。
私も宅積みはしますし、まれに他で拾った石を別の場所で使ったりすることもあります。河原で人に教える時は「布の袋を持ってくると運ぶのに便利ですよ」と教えたりもします。それでもロックバランシングであることは間違いないからです。
ただ、自然の中で積む時は、真の意味で道具をまったく使わず、自分という生物個体の力だけで成し遂げたという達成感を加味することが可能だと考えているのです。そうやってできた作品は特別な評価を与えてもいいように思っています。