浜辺に打ち上げられた鯨の死体に夫を見た
<ムービージュークボックス21>
夫が、少年に淫行したという疑いをかけられたが、証拠は何も出なかった。
妻のアンナもあえて夫を質問攻めしなかった。夫を信じていたというより、
疑う気持ちがなえていた。
夫は、この疑惑のために失職する。しかし、それなりの蓄えがあったので、アンナは、趣味の演劇サークルを続けながら、家政婦のパートをしていた。
ある日、警察署から再尋問のために、夫は出頭を命じられた。その日から映画が始まる。初老の妻を演じるシャーロット・ランプリングの映画
「アンナHANNAH(ともしび)2017」。
出頭に付き添うアンナと夫との会話はない。前夜からも話をしていない。
アンナは、夫を励ましたりもしなかった。夫の推定無罪が揺らぐのがこわかった。
家に戻ったアンナは、ベッドの上に置かれた夫の白のYシャツを、ハンガーに
丁寧に掛ける。また、帰ってきたときのために。
演劇サークルに属していたアンナには、気になるセリフがあった。
「あなたのように考え、話す人と、共に暮らせません。
私はまた戻ってしまった、あなたのかわいいヒバリに。
私はまた戻ってしまった、あなたの人形に」
家で何度もくり返す。何度も考える。
「あのことを話題にしない」ふたりの約束というより、老夫婦のあ・うんの呼吸で、無口になっている。
子を持つ親として、アンナの息子は、疑惑であろうが、淫行の父を許さない。家の近くから引越し、絶縁した。
アンナは、孫の誕生日に手づくりのケーキを家に持参したが、息子に門前払いされた。アンナは、帰路の公衆トイレで思い切り泣いた。
翌日の刑務所訪問で、アンナは「孫は、パパの分もと言って、強くハグしてくれたわよ。ポトフが美味しかった」と、夫に嘘を言った。
ある日、天井の漏水を直すために、家具を動かした。そのとき、家具の裏に隠されていた封筒が出てきた。
アンナが、生涯で最も見たくない写真が出てきた。あわてて、集合住宅のゴミ箱に捨てた。
次の刑務所訪問で、「次はいつ来るんだ」と聞かれたので「わからない」と答えた。「ところで、写真が見つかった」と言うと、夫は凍った。
演劇の練習本に「愛は、一瞬で消える」というセリフがあったが、いまは、すんなり飲み込めた。
弁護士を呼び、離婚の手続きをした。
家政婦づとめの帰り道、報道されていた浜辺に打ち上げられたクジラの死体を見に行った。
アンナは、クジラをじっと見つめた。横たわっている夫のように思えた。
夫の死を見届けるように、アンナは、静かに凝視していた。
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