わからないことをわからないと言えなくて



自分の殻を破るのって、結構勇気が要る。




私が心から尊敬する先生がいる。それは、高校のときの担任の先生。

私は高校1年生のとき、学校に行けなくなったことがある。もともと休みがちだったのが、本当に些細なきっかけで完全に行けなくなってしまった。他の人の目が気になって気になってしょうがなかった。

当時の担任は、ちょっと口が悪いけれど、生徒から信頼されている男性の先生だった。不登校ぎみの子が多いクラスだった、担任自身は、インターハイに毎年出場する運動部の顧問もしていた。

そんななか、担任は3日に1日くらい家に来て、声をかけ続けてくれた。それだけでなく、他の先生にも声をかけていて、ほぼ毎日違う先生が家に来て声をかけ続けてくれていた。あるときはクラスメイトからの手紙を持ってきてくれたり、学校の話をしてくれたり。そんな日々が1ヶ月ちょっと続いた。

私の家は、高校のある場所から車で片道40分かかる場所にある。担任も忙しいのに、他の先生にもお願いして、、、と考えると、本当に頭が上がらない。

担任は私に「見ろ!お前のせいで10円ハゲができたぞ。」と耳の後ろを指差して、(10円ハゲは実際にできていたのだけれど)まるで冗談のように言って笑った。申し訳ない気持ちになったけれど、「いいからちゃんと学校に来い。」とも言った。たぶん、本当は学校に行きたい、という気持ちをわかってくれていたのだろう。




担任が家に通ってくれていたときにかけてくれたある言葉を、私はおとなになってもずっと覚えている。


「たくさん恥をかけ。負けるな。」


その言葉を聞いた当時の私は泣いていた。でも、心に突き刺さる言葉だった。周りの目を気にして、恥をかくことが怖いと思っていた私へのエールだったのだと思っている。

それからしばらくして、私はもう一度学校に行き始めた。それから(学生時代だけでなくとも)負けそうになったとき、私はこの言葉を幾度となく思い出し、励まされている。


おとなになってから、担任に再会する機会があった。

改めてお礼を伝えたけれど、担任は私にくれた言葉を覚えていないと言った。先生なんてそんなもんだ、と言って笑った。




今まで出会った子どもたちの中に、わからないことをわからないと言えない子・言わない子がたくさんいた。

もっと細かく言うと「どう言えばいいかわからない」「怒られそうで言えない」「言いたくない(もっと時間をかけて考えたい)」といったように、それぞれさまざまな理由を持っている。でもその根底にあるのは、「正解したい」「間違うのは恥ずかしいことだ」という気持ちなのではないだろうか。

学生生活を思い出してみると、恥をかくであろう場面は、毎日いくつもあった。たとえば授業中、先生に指名されて発言しなければならない場面になること。他の人から注目されている場面で、間違えてしまう可能性があること。自分の言い方で伝わるのかという不安。子どもはそういった緊張にとても敏感になる。


子どもたちの気持ちはとてもよくわかる。

「間違えて初めて気づくことがある」とおとなが伝えても、なかなかそうは思えないことも。

おとなから「言わないとわからないよ」と言われたあとの無言の裏に、いろいろな気持ちがあることも。

だからおとなが、人それぞれある「わからないことをわからないと言えない気持ち」に寄り添うことで、初めて子どもが「間違えてもいいんだ」と思えるのではないか、と思っている。






でも、たくさん恥をかいてきた私もまだまだ、「わからないことをわからないと言えない」1人だけれど。










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