哲学系ユーチューバーじゅんちゃんの岩上安身批判 VS 人類学者松村圭一郎氏の論考 

 ウクライナ侵攻についてのIWJ岩上安身氏の報道姿勢に疑問を呈する哲学的ユーチューバーじゅんちゃんの動画。

刺激的なタイトルだが、よく聴いてみると、岩上安身が橋下徹とくっついたわけではない。
岩上安身の情報ソースが怪しげだという点はうなずける。
だが、アゾフをネオナチだというやつはディープステート論者だ、とでも言わんばかりなのはどうなんだろう。
じゅんちゃん自身がかなり親ウクライナ、親ゼレンスキー、ならまだいいが、親アゾフにすら聞こえるのだ。

ウクライナも東と西でまったくちがうようだ。東西ウクライナで同時にまったく逆の事態が進行していて、東西サイドが互いのことだけを言っている可能性はないのか。
そんなことを感じさせるのが、2014年以来ドンバス地方からの報道を続けるフランスの映像ジャーナリスト、アン・ロール・ボネルだが、このの報道には、じゅんちゃんは当然まったく触れようとはしない。ただロシアは悪い悪いと繰り返す。

ロシアが悪いのはわかりきっている。その点で、ぼくもじゅんちゃんに異を唱えるつもりはない。彼が言うとおり、よそのうちに侵入したらいけないのだから。

だが、プーチン・ロシアのEU加盟を事実上拒否した米国、さらに東部のロシア系住民に蛮行を働くネオナチ、アゾフ連隊は、ロシアにとって十分な侵攻の動機だ。これを歓迎するのは誰か? 軍需産業ではないのか。軍需産業にとって、平和ほど忌むべきものはないのだから。そしてそれに投資する株主である。

じゅんちゃんはそれを忘れて、単純な善悪二元論に陥っていると思えてならない。

今回のウクライナの事態は、それを見ている我々の側にとって、そうとう深刻だ。

昨日の東京新聞文化面に掲載された文化人類学者、松村圭一郎氏の「ウクライナ侵攻と人類学的思考」という論考に、ぼくはすごく共感を覚えた。長くなるけど、ほぼ全文、お読みいただきましょう。

*  *  *

 ・・・ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、いまだに人類が悲惨な戦争を回避できない現実を突きつけた。国家が対話ではなく、暴力で問題を解決しようとする。軍事力で他国を征服し、支配する。それはロシアを非難する欧米諸国も、歴史的に何度もくり返してきたことだ。「危機」のなかで、つねにふつうの人びとの命や生活が犠牲になっている。

 人類学という学問も、19世紀後半、列強諸国が強大な軍事力を背景に世界中を植民地支配する過程で発展した。西洋の人類学者が非西洋の人びとを一方的に研究・・たとえ銃や大砲を使わなくても、その非対称な関係は暴力的なのではないか。1970年以降、人類学は反省を迫られてきた。人類学者の岩田慶治は、研究対象を理解・分析するだけでなく、みずからその世界を生きることを訴えた。それは、調査する側とされる側が対等な立場で共同作業をするという対称性を回復する試みでもあった。

 現在、世界的に注目され、日本でも邦訳の出版が相次いでいるイギリスの人類学者、ティム・インゴルドが提唱していることも、岩田の議論と重なる。インゴルドは『人類学とは何か』の冒頭、次のように述べる「私たちはどのように生きるべきか? 間違いなく、人間はその問いを考え続けて来た。おそらく、その問いを考えることこそが、私たちを人間にする」

 インゴルドは、人類学とは、この問いを考えるために世界中の人びとの知恵と経験を注ぎ込む学問なのだという。人びとの生活に深く参与し、巻き込まれながら研究する。「人類学とは、世界に入っていき、人々とともにする哲学である」。それは、客観的な「知識」を増やすのではなく、「知恵」を手にするためのものだ。

 知識は、説明したり、予測可能にしたりするために、概念や思考のカテゴリーにモノを固定しようとする。インゴルドが目指すのは、そうやって知識で武装し、知識の要塞に立てこもることではない。そうなると、人は周囲のことに注意を払わなくなる。逆に、知恵があるとは、思い切って世界のなかに飛び込み、そこで起きていることにさらされる危険を冒すことだ。知識は人の心を安定させ、不安を振り払ってくれる。逆に知恵は、私たちをぐらつかせ、不安にする。「知識は武装し、統制する。知恵は武装解除し、降参する」

 インゴルドも知識が不要だと言っているわけではない。知識に劣らず知恵が必要なのに、そのバランスは圧倒的に知識に偏っていて、知恵から遠ざかっている。人類学もずっと「知識生産」に関わってきた。調査したことを科学的な「データ」にする。それは「人々にツイテの研究」だ【カタカナは原文では傍点】。インゴルドは、人類学の参与観察という方法は「人々トトモニ研究する」ことだという。それは「他者の生を書くこと」ではなく、「生きる方法を見つけるという共通の任務に他者とともに加わることだ」と。

 他者を真剣に受け取ること。インゴルドはそれが人類学の第一の原則だと主張する。それは他者との違いが私たちを「ぐらつかせ、不安にする」ことに向き合う姿勢でもある。人類学は、その不安に対して、調査対象の人々が合理的ではないとか、論理的思考ができないとか、発達の初期段階の特徴があるといった口実をもちだして自分たちの現実を守ろうとしてきた。それは「私たちが=知っている=現実が侵されないままであると納得するための戦術」だった。他者を真剣に受け取れば、私たちの世界が別様にありうると認めるしかない。

 この世界は知識によって全体像があきらかになるような固定したものではない。「世界はむしろ、絶えず生成しつつある」。だから、何が生じつつあるのか、目をこらして注意を払わなければならない。

 信じがたいことが起きつづけている。そんな映像や情報は私たちを不安にさせる。そこで不安から逃れるために、わかりやすい構図に現実を押し込めようとしていないか。私たち自身も問われている。

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