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“光あるうちに光の中を歩め”(前編)(#27)
“2021年”
2021年、日本はオリンピックイヤーを2年連続で迎えるという珍しい一年としてスタートしました。
1月現在、東京オリンピック・パラリンピック(以下東京オリンピックと略称)は開催予定ですが、現在世界中で新型コロナウイルス感染拡大は予断を許さない状況になっています。
それでも世界大会は22年冬季北京オリンピック・パラリンピック、22年サッカーカタールワールドカップ等々、開催が予想できない大会はまだまだ続きます。
東京オリンピック“2020”は奇しくもその先鞭をつける役割を担ってしまいましたが、順調に開催することに懐疑的な人も多いのが現状です。
もし開催されないとしたら、オリンピック史における空白となるのかもしれません。
(大会中止となれば、第二次世界大戦後初)
“モスクワオリンピック”
その意味で“空白”についていえば、日本では41年前の1980年のモスクワオリンピックと結びつくかもしれません。
米ソ冷戦時代の政治的背景を受けて、JOCは賛成多数でモスクワオリンピックへの選手派遣をボイコットする運びとなりました。
選手達の涙が印象的で、やはり選手にとっては悲劇でしかなく、その意味では東京オリンピック2020も同じ道を辿るかもしれません。
ですがオリンピック招致と招致に向けた活動として都市に変化があったことは疑いようがありません。
分かりやすい例は電車内のアナウンスや表示が多国語化されたり、来訪者を意識した気遣いがなされた点です。
その流れで駅舎内にパブリックアートが見られるようになりました。
特にステンドグラスを用いたものはどこか印象的です。
写真は東京メトロ内に設置されてあるものです。
上:「上野今昔物語」宮田 亮平/銀座線 上野駅
下:「地下鐵道乃圖」山口 晃/副都心線 西早稲田駅
※公益財団法人メトロ文化財団HPよりhttps://www.metrocf.or.jp/culture/public_art.html
一般的にステンドグラスは教会にある印象ですが、なぜ教会に多くあるのでしょう?
それは活字である聖書の世界観を目で見える形で再現し、広めるためであります。
また、新約聖書ヨハネの手紙I 1章5節にある“神は光(God is light)”といわれており、教会に光を通し、光である神の中で身を交わらせるためでもあります。
光という抽象的なものと対照的に具体的であることが多いのです(もっとも抽象的には作り難いのかもしれませんが)。
ただどちらかといえば日本のそれは旧ソ連の名残あるステンドグラスに近いように感じられます。
それはきっと宗教感がないからかもしれません。
引用: ロシア・ビヨンド
https://jp.rbth.com/arts/84733-soren-stained-glass-de-nani-egakareta
旧ソ連時代、芸術全般に対し、国が求めたのは労働者を鼓舞するための、“分かりやすさ”でした(=社会主義的リアリズム)。
その意味では東京メトロ内にみるステンドグラスはロシアのそれと同じく具体的な要素が強いかもしれません。
目的は違えど、より広く“(国外を含めた)見る人”に印象づけ、関心を惹く点では共通するものがあるのかもしれません
“光”の中を歩む
ステンドグラスは“色に染まったガラス”を意味します。
ですので差はありますが、ガラス同様、光を通します。
“光あるうちに光の中を歩め”
これはロシアの文豪トルストイの同名小説です。
その中にこのような言葉があります。
小さいものも大きいものもない、ただ真っ直ぐなものと曲がったものとがあるばかりだ。人生の真っ直ぐな道へ入りなさい。
彩るガラスが通した光は今何を照らしているのでしょうか。
光があってようやく人は視界を手に入れ、世界の彩りを感じはじめるのです。
そんな今を映す世界をみつめ、歩き(=最善を尽くし)、手の及ばないことについては歴史に委ねるしかないのかもしれません。
たとえオリンピックが開催されなくなっても、41年前モスクワに行けず涙を飲んだ選手団のように、あの汗や涙は貴く何よりも輝き続けるでしょう。
オリンピックみたいですけどね、、、。
(後編へ)
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