「時間経済」と『クリエイティブ資本論』

2020/6/27付⽇本経済新聞 朝刊の『《Deep Insight》「時間経済」は商機か受難か』は、これまで何気なく感じていたことを明解に指摘し、整理してくれている気がする。

「可処分時間」
今年会社勤めを卒業し再び学生生活に戻った私は、まさに「可処分所得」の積み増しよりも「可処分時間」の確保を選択した。
そしてコロナ禍に伴うオンライン方式による講義は、可処分時間を一層拡充させる効果があった。
所得と資産の蓄積のない若い学生さん達には誠に申し訳ないが、書斎でデスクトップPCにより受講すると、辞書や参考書を随時取り出すことができるし、資料類は画面に広げた方が見やすい。老眼が日に日に進行する体としては、老眼鏡を付け替えることなく文字を拡大できるのは極めて助かる。
また、ノートについても、資料がデータファイルであればコメント機能などを使って速くきれいに記録が可能なのがうれしい。幼少の頃に怠けた祟りで年をとっても悪筆のままなので、肉筆ノートは自分でも判読できなくなるのだ。
そして、時間の無駄なく予習復習したり、気分転換の散歩や筋トレができる。なんと時間が有効に使用できることか!
勿論、これは私が酸いも甘いも味わい尽くした老人だから可能なのであって、白紙の状態の若い学生さんたちに対しては、やはり対面での指導は必須である。企業においてオンラインのみで新入社員教育が完結できないのと同じだ。

「移動という⾏為やビジネスが絶滅の危機にひんしたわけではない」
コロナ禍に陥る以前から主として健康目的で、都心内での移動は可能な限り徒歩にしていた。
この時気付いたのは、徒歩で移動すると、移動中に頭の中で目的地での作業が極めて明快に整理され、到着すると即座に作業に取り掛かれる、ということだ。
おそらく都会の電車のような移動手段では速すぎて頭の整理が追い付かないのであろう。得てして到着してからなかなか作業に取り掛かれずダラダラしてしまうことが多かった。
どちらが効率的か?少なくとも気持ちよく作業を進めるのは徒歩移動だ。

「⻑さや⽤途で多様な時間が⽣まれた」
“⻑さで⾔えば、以前は「こま切れ時間」しかビジネスの対象ではなかった。電⾞の中の30分。出張の帰り、新幹線を待ちながらの40分。”という整理は興味深い。スマホゲームがラスベガスから観光客を奪った、という例を挙げている。
日本で言えば、外訪営業がわずかな隙間時間にポケモンゴーに興じたりするのも、パチンコ愛好者がスマホゲームに流れるのも同様の現象だろう。
“ラーメンなどの⼈気店で並ぶ、代⾏ギグワーカーを多数⽣んだ。外⾷産業には「待つ」という新たな産業が加わり・・・”には驚いた。
確かに、行列してまで外食しない主義の私でも、行列代行料金は有名店プレミアムと整理して利用してみる気になる。需要の発掘だ。

「時間経済がもたらすのは福⾳だけではない」
“便利な技術は今後も進歩し、可処分時間が増える。だが、その時間は⼈間をより忙しくする可能性もありそうだ。”として、エクセルの影響を挙げている。
しかし、私は同じエクセルを例にして逆の理解だ。
確かに“計算から解放された⼀⽅で、今まで問われることのなかった能⼒を別の場所で発揮するよう、求められることになった。”そして“機械や陳腐化に負けない能⼒”を追求しなければ生き残れない。これは極めて大きな負担だ。
一方で、「計算」が単なる作業ではないことを、従来以上に強く認識させられるようになったのも実態であり、「計算」の意味を理解してこそ初めて“機械に負けない”はずだ。
そして、それは人間としての営みの中にこそあるはずだ。
Richard L. Floridaという社会学者の『クリエイティブ資本論』に説明されているらしい。ちょっと覗いてみるかな。

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