【読書録】井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』2
これから、いくつかこの本から得たことを、引用しながら紹介したいと思う。
余談だが、珍しく、この本は電子書籍の形で読んだ。スマートフォンに表示させたり、パソコンに表示させたりした。器用な読み方をしたものだ。しかし、興味をもって、腑分けするように、足を踏みしめながら読むように読み進めれば、読む媒体というのは関係ないのだ、という洞察を得た。
もちろん好みとしての読み方というのもあるが、たとえば電子書籍でしか、その本が手に入らない、ということがあったなら、一生懸命それを読み進めるまでの話だ。しかし、ほとんどの場合、そういったことは起きなかったが。
(引用時にページ数を載せられないのに慣れない……)
秘教、密教、神秘主義、それらは異口同音に、この世界の表面には、重要なことが書かれていない、大事なのは深奥の、この世ならざる真実なのだ、と、まず初学者は捉える、これらの宗教の、われわれが普通思い浮かべるイメージといってもいい。しかし、それを究めて、究め尽くしたうちのある流派(そう、他の捉え方をする流派もあるらしい)は、この現実、あるがままの現実そのものこそが、深奥の真実、この書の用語を借りればファナーの境地から現れた神聖性であると、言うらしい。
一見すると、逆張りのようにも見える。しかし、そもそも、イスラム神秘主義の修行というものそのものが、今あるこの世、現世的な所から、ファナーという上昇の階梯を昇って、神聖な、この世を生み出した原初的な力そのもののなかに、自我を捨てることによって飛び込み、それから、バカーという下降の階梯を下り、この世、現世に戻って来るのだが、その際に目にする現世は、ことごとくがその神聖な原初的な力から湧き上がるようにして現れた、その神聖さを保存している、それを見ることにあるのだから、こういう結論は、当然でもあるかもしれない。
このあたりのくだり、イスラム神秘主義、スーフィズムの、具体的な修行の際に、教徒が見る光景の描写というものを、ぜひ読んでみてほしい、行者はただ自身の内面を見ているのだが、そのうち、自我というものを、何重かの玉ねぎ状の構造に見立てて、一つ一つ脱いでいき、そうすると、自我ではないのだから、何か光景としかいえないものが見えてきて、次第に、明らかに自分のものではないのに、なぜか自分の大きい顔に直面するという、ただ傍からその描写を読んでいるだけでものすごい光景が広がっている。
また、おそらくこの描写を可能にした原著は、それほどわかりやすく書いたのでもないのだろうから、井筒俊彦の、翻訳力と読解力の力も、ここで感じてほしい。
話の佳境、存在一性論者の論じる、その、この世にただ一つしかないという「存在」、それは何なのかということについて語る段になって、まるで興奮し切ったので思わず出てしまったとでもいった風に、中国の儒教、また仏教の様々な用語が、それを譬えるために多出しだすところが、面白かった。
井筒俊彦は、一般的な言い方でいえば、特に東洋についての、比較宗教学、それから他人には触れ得ないようなレベルの原典の翻訳、といったことが、本領であると、僕は理解しているのだが、この、イスラムのスーフィズムについて、それだけに焦点を絞って話しているように見えて、そうでなければ講義の体をなさないことになるからだろうと思うのだが、内面では、もとから、全ての宗教を比較しながら、念頭に置きながら語られているのだなということが、この箇所で分かった。もともと、本当に並行して思考されていて、この箇所ではその思考が少し漏れてしまったという風なのだ、きっと。
このわずかな箇所に、イスラムの神秘と、中国や日本が原点として抱えている真理の共通点があるというのだから、気になってしまい、これを読み終えたら今度はあれを読もう、などという気になっている。
以上、点々とした引用になってしまったが、この本全体として、とても楽しんで読んだ。単に、入門書ゆえかもしれないが、中心には得体のしれないものが転がっている予感がする。
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