【読書録】ベルクソン『物質と記憶』2

 もったいぶらずに、前回の続きの、このベルクソンの『物質と記憶』がさも忘れたかのように振る舞いつつ、そこを乗り越えるために、目指しているといっても過言ではないある一つの哲学とは、ヒュームの観念連合論である。
 ヒュームの名前は出さずに、観念連合という彼の概念を名指しし、「観念連合論の間違っている点は……」などと、その理論を新しい枠組みから説明しなおそうという所もあった。
 ヒュームの観念連合論は、前提がかなりシンプルである、まるで他の人間の複雑な仕組みなど、なかったかのように、人間の精神に浮遊するイメージについて、印象であるとか、観念であるとか分類し、そこに矢印を引き、僕の読んだ印象ではあるが、まるで、精神のなかに分子として、ある観念が浮いており、それらがネットワークでつながれ、新しい観念が生まれたりする、フリーラディカルな空間というのを、前提しているように思えた。
 ヒュームも、一冊を完全に読み終えたと言えるものがないので、本当にそうであるとは、言えない。
 たしかに乱暴な論でもあると思う、抽象化しすぎというか。しかし、この、観念の本質がネットワークであるとか、その時代の文脈とは外れるかもしれないが、こんな風にイメージすることが必要な場面も現れるのではないかという期待も生まれる。
 そして、それに対して、正面から否定する構えであるが、そのじつ、強く意識はしているのだろうなと思えるのが、ベルクソンである。自分なりの『人間本性論』を書こうとした、といえば聞こえが良いのかもしれないが、もうさすがに古いので、ここを基盤において、他の諸科学も見据えながら、乗り越えを計った、というのが一番近いのだろうか。
 次回は、少し日常的な話題に戻して、記憶に関する著書を読む功徳について、書こうと思う。

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