【日記】耐久性

 人の耐久性について考える。
 プールに行く。一月の初めから二週間くらい、サボってしまったら足の踏ん張りがきかなくなってしまった。最近、他の日常動作における運動も減ってしまっている。それでがくっと落ちてしまった体力と、少し上がってしまった体重だが、残りの後半の半分か、自分の感じだともっと短く一週間くらい、プールでの踏ん張りを意識的に上げたところ、体力が少しは改善しているように感じられてきた。

 ウクレレを弾く。今、少し時間が空いている状況なので、今まで毎日とか楽器に触れることはできていなかったのだが、毎日一時間は触れるようにした。本当はもっとあった方が良いのかもしれないが、ウクレレやギターなど、指で直接弦を押さえる弦楽器をやったことのある人ならわかると思うが、指がまず慣れないといけない。物理的に、皮膚が対応して固くなったり、指の筋肉がついてこないことには、たとえば初めて楽器を触ったり、たまに触ります程度の人だと、一時間がやっぱり限度だし、場合によってはもっと短いのではないだろうか。
 今、とりあえず安定して一時間以上、楽器を弾ける状態を目指し訓練しているのだが、そうなるには、やはり一定期間が必要で、おそらくそれも一週間か二週間くらいはかかるだろう。

 かようにして、何か続けなければ、物理的に、あるいは思考とは別の低次の神経的要素が改善することがない。そしてそのように、何かを続けた結果普通の状態と変化した肉体や神経は、他の方法では基本的に得ることができない。ふつうの言葉に直せば、継続は力ということではあるのだが……

 最近よく聞くラジオで「ゆる言語学ラジオ」というのがある。ラジオといってもポッドキャストだったり、自分が実際に流しているのはユーチューブで配信している動画なのだが、基本的にスタイルとしてはラジオである。で、その中で、日本国語大辞典という、日本国内の、特殊なジャンルではないいわゆる辞書の中では最大の収録数、巻数ページ数である辞書があるのだが、それをほとんど一人で作成した人、しかも代々辞書に関わり続けた三代の家系があるという興味深い話をしている。
 一人で作成するには、明らかに人生すべての時間では足りそうにない分量である。しかし、文字通り何十年という時間を、さも計画の一部として使いながら、松井家というのだが、その父と子と孫がそれぞれの一章を費やしながら完成させた辞書であるという。
 その作成の過程で、最も必要になるのが、時間の管理の仕方である。今作り上げようとしていることは、どれだけの時間が必要なのだが、それをするには一日にこれくらいのことをしなければならなくて……ということを、本当に単純に日割りで計算する、そんなに単純に行くかと普通の人なら思うが、彼らのなかではそれを愚直にこなし、もし遅延があったとしたら次の日に取り返すというようにして、たとえば一日に三十単語と決めたらそのペースを着々と毎日続け、完成に至ったのだという話だ。
 そこでの結論も、この話を知らなければきわめて凡庸に響く言葉ではあるが、「継続は力」であると……。

 佐々木中が、人は真理を求めるが真理が衝撃的だったり逆に悪魔的魅力があるだなんだという場合には、さぞわかりやすいし凡人もそういうものを期待するだろう。しかし実際はそんなことではなく、真理は実はきわめて退屈な事実の中にしかないのかもしれない、とニーチェの書いたことを引いたことがある。
 あたかも学校の校長の訓辞みたいに、聞いた人の耳から即座に零れていくような言葉、「継続は力」も、そういう類の真理なのかもしれないと感じた……。

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