有吉佐和子『非色』1964年に書かれた人種差別――早過ぎた作家による早過ぎた小説
早過ぎた作家、早過ぎた作品……といった言い方があるが、有吉佐和子と有吉佐和子の小説がまさにあてはまるのではないだろうか?
1964年に発表された『非色』は、黒人差別を扱っていることが問題視され、絶版になっていたらしい。しかし、ここ数年のBlack lives matter運動の盛りあがりによって再び脚光を浴び、50年以上の時を越えて、2020年に復刊された。
あらすじ 出会いは進駐軍のキャバレー
戦後まもない時代、戦争によって母と妹とともに住んでいた家を焼き出された主人公の笑子は、進駐軍のキャバレーへ向かう。なんとしても食べていかねばならない。日本の会社はまだ機能していなかったので、職を得るためには進駐軍に近づくしか方法がなかったのだ。
英語もできないのにキャバレーの入口に押入り、イエスやノーや言っていると、大男の黒人がクロークの職を与えてくれた。それから笑子は、キャバレーで少しでも給料のいい仕事を得るために、がむしゃらに英語の勉強をはじめる。
すると、職を与えてくれた大男の黒人がまたも姿を見せ、英会話を教えてあげようと申し出る。男の正体は、キャバレーの支配人のひとり、進駐軍のトーマス・ジャクソン伍長であると判明する。トムと笑子はデートを重ねるようになり、ついには母親と妹の反対を押し切って結婚する。
社会にはまだ戦争の傷跡が残り、日本人の多くは食べるものもろくに手に入れられないというのに、進駐軍に勤めるトムと笑子の家庭には新しい家電が備えられ、贅沢な暮らしを謳歌する。しかし、娘のメアリイが三歳になったとき、トムに帰国命令が下る。
除隊したトムと一緒に暮らすために、笑子はニューヨークへ向かうが、そこで待ち構えていたのは、まったく思いもよらない事態であった……
差別を見据える冷徹な視点が特徴
とにかくこの小説は、徹底してリアリスティックに差別が描かれている。
日本にいたときのトムは、すべてを失った当時の日本人とは比べものにならないほど豪勢な生活を送っている。トムと笑子は、デートでアーニー・パイル劇場(GHQに接収された東京宝塚劇場)に行き、ステーキにアイスクリームといったディナーを食べる。ふたりが結婚したのは1947年だが、新婚家庭には冷蔵庫や電気洗濯機が備わっている。
ところが、ニューヨークの貧民街(ハーレム)に戻ったトムは、住む場所もなく友人の家を転々とした末に半地下の家を見つけ、ようやくありついた仕事は、病院の夜間で働く雑役夫まがいの看護夫であった。
華やかなニューヨークを心に描いて、えんえんと船に乗ってやって来た笑子は、荒廃したハーレムの街並みと、日の当たらない新しい住処に愕然とする。メアリイは「マミイ、船の中と同じだね」と言う。
作者のリアリスティックな視線は、人間が抱く差別心も容赦なく暴く。
母親は、笑子がトムと付き合うことで一家の金回りがよくなると、あからさまに笑子の機嫌をとるようになる。だがトムと結婚すると言い出すと、にわかに手のひらを返し、「あんな黒い人と結婚するだなんて!」と、世間さまに顔向けできない、御先祖様にどうやってお詫びをするのかと激高する。
内心では結婚を迷っていた笑子だったが、母親の言葉への反発心によって、結婚を決意する。
この小説の興味深い点は、母親のような人物を悪人として断罪しているのではなく、その差別心や俗物ぶりを人間の愚かさとしてありのままに描いているところにある。結婚にあれほど反対した母親だが、結局ちゃっかりとふたりの新居に出入りするようになり、「アメリカさんの家は温かくていいねえ」とぬけぬけと言う。
笑子が妊娠した際は、結婚すると告げたときと同様に、「黒ン坊生れちゃ困るじゃないか」と当然のように堕胎を勧めるが、出産時には手作りの人形を持って顔を出し、笑子が働いているあいだはやむなく孫娘の面倒をみる。この小説は、こういう普通の――善良とも言える――人々の心に根付く差別心をさらけ出し、差別というものの厄介さを浮き彫りにしている。
差別されている者のあいだで生まれる差別
さらにこの小説は、差別されている者のあいだでさらなる差別が生まれる現実をも描いている。
ニューヨークに渡った笑子は、プエルトルコ人が黒人よりも差別されていることを知る。ともにニューヨーク行きの船に乗った竹子は、笑子と同じく黒人兵と結婚した女であるが、
と言い放つ。笑子の友人となる竹子も基本的に善人として描かれているが、自分たちの所属している黒人社会より下と見做されているプエルトリコへの侮蔑の念を隠さない。笑子はかつて母親に感じたものと同じ反発心を竹子に抱くが、
と返され、笑子は心の中を見透かされたように、居心地の悪い気分になる。
白人社会の中で、ユダヤ人、イタリア人、アイルランド人が卑しめられ、卑しめられた人々は奴隷の子孫である黒人を蔑視し、そして黒人はプエルトリコ人を最下層とする。
人間は誰でも「自分よりも下」を設定し、それより優れていると思わないと生きられない存在なのではないか……笑子はそう気づきはじめる。
たくましい女たち
1964年の時点で、ここまで人種差別を掘り下げた有吉佐和子の力量にも驚かされるが、この小説のもうひとつの大きな魅力は、笑子をはじめとする女たちのたくましさだ。
女学校を出たばかりの笑子は、母と妹を養うために社会に出るが、それ以降ずっと、家族を養うために休むことなくひたすら働き続ける。
ニューヨークに渡ってからは、稼ぎの少ないトムに代わって一家の大黒柱となり、次々に増えていく子どもたちを育てるために、せっせと貯金に励む。
しかも働くだけではなく、自分でも呆れるくらいのお人好しで、船で出会った竹子や麗子といった友人たちの面倒もこまめにみる。笑子の正義感と優しさによって、差別という解決策が見出せない深刻な主題が、読者の心の中にすんなりと入りこむ。
たくましい女性として描かれているのは笑子だけではない。笑子の雇用主となる高級日本食レストラン「ナイトウ」の女主人や、ユダヤ人学者の妻として国連で働くレイドン夫人といったニューヨークで生き抜く日本人女性たちの姿も、出番は短いものの印象に残り、彼女たちがどういう人生を送ってきたのかつい想像してしまう。
そしてなにより、娘のメアリイが笑子と負けず劣らずのたくましい女性に成長する。外で忙しく働く笑子にかわって一家の主婦となり、バアバラ、ベティ、サムといった妹や弟たちを育てる。
聡明なメアリイは学校でも抜群の成績をおさめて、小学校3年生にして、「アメリカ人という言葉は少し複雑のようです」と作文を書き、笑子の胸を打つ。
この小説を読むと、どんなところであっても差別が存在する現実を直視させられる。国籍や人種が異なる者同士のあいだはもちろん、差別されている者同士のあいだでも、ひとつの家庭のなかでも、差別は生まれる。人間は誰かを見下さずにいられない生きものであることがまざまざと描かれている。
いつの日か、人間は差別心を手放すことができるのだろうか?
簡単に答えを出すことはできないが、この小説のラストにおける笑子の決意には、たしかな希望が感じられる。もちろん現実は甘いものではなく、この小説が書かれたときから50年以上経ったいまも、差別はなくなっていない。けれども、たとえ一歩ずつでも、前へ進んでいるのではないだろうか。そんな気持ちになれる一冊だ。
(2022/12/03 2021/05/16付はてなブログの記事を加筆修正)
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