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【メタ客観】高階客観性理論

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0. 本記事の読み方

[0]本記事は、パラグラフライティングで書いてある(つもりだ)。
各段落の1文目が、その段落全体の要約文となっていて、2文目以降は1文目に対する補足や追加説明となっている。
普通に読んでいて、「こいつ何が言いたいのかよくわかんない」となったら、各段落の先頭1文のみを読むようにしてみてほしい。

1. 男性差別のパラドクス

[1]客観と主観は、対義語の関係にあるはずでありながら、その2つの状態が同時に成立することがあり得る。
僕は、常日頃から次のように思っている。
「客観的であるということは、同時に主観的であるということである」と。
「平等を目指すことは、同時に不平等を目指すことである」と。

[2]この矛盾は、「『女性や黒人への差別しか問題視しない』ことは、それ自体が男性や白人への差別に当たるか」を考えてみるとわかりやすい。
例えば日本では、女子受験生が医学部を受験すると、不正に減点されてしまうという女性差別があった。・・・①
一方、工科系大学の一部が「女性を応援するため」という理由で男子減点(女子加点)を行うとして男性差別を公表していた。・・・②
これだけなら、「女子にも男子にも苦労があるよね」で済んだのだが、問題はマスコミだ。彼らは①の女性差別ばかりを報道したはよいが、②の男性差別はほとんど報道しなかった。・・・③
さて、皆さんに問いたい。マスコミが行った③の行為は、それ自体を男性差別と認めるべきであろうか。この問いを「男性差別のパラドクス」呼ぶことにする。

[3]実はこの男性差別のパラドクスは、答えが一つに決まらない問題なのだ。
ややこしい点は2つある。それは
・②がそもそも男性差別に当たるか
・(②が男性差別だとして、)③が男性差別にあたるか
である。
「性別を理由に入試の点数を学校側が変えてしまうこと」そのものを性差別と考えるとき、「②は男性差別である」といえる。
しかし「少数派を応援するための措置であって、かつ事前に断っているのであれば、多数派に対して多少不利になるような措置は差別とは言えない」
と考えるのであれば、「②は男性差別には当たらない」ということになる。
また仮に②が男性差別であったとしても、
「差別の行われていた時期やその長さ、公表の有無などの『タチの悪さ』が①と②では大きく異なる」ことを理由に③を男性差別と認めない立場があってもおかしくない。
また、「もし③を男性差別と認めてしまったら、すべての報道は差別になってしまうのかもしれない」という危惧もあったりする。

[4]男性差別のパラドクスについて一つ確実に言えることは、「女子減点や男子減点といった性差別(①②)と、女性差別しか報道しないというマスコミの性差別(③)では種類が異なる」ということである。マスコミが①の女性差別を報道したとき、
①に対するマスコミの報道は客観的である」か否か・・・Ⅰ
を評価することが出来る。
「医科系大学が減点したのは女子受験生だけでなく、一定年数以上の浪人生なども減点対象としていた」ということを報道したか、
その後、大学側がどのような対応をとったかを伝えたか、
などが評価基準となるだろう。
客観性Iの評価では、①という社会現象が「全体」となっているため、②は一切関係ないことに注意が必要である。
「①に対する報道と②に対する報道は平等であったか。この意味でマスコミは客観的であったか」・・・Ⅱ
を評価するときは、評価基準がⅠと全く別であることに気をつけなくてはいけない。なぜならばⅡの全体は「①や②という社会現象」であって、②も大きく関係しているからだ。客観性に影響を与える因子が全く異なるのだ。

[5]種類の異なる客観性が存在する以上、「ある現象が客観的(平等)であるが、同時に主観的(不平等)でもある」ということはどうしても起こり得る。
現に、「マスコミが女性差別ばかりを報道するのは、客観性Iの意味で客観的だが、客観性Ⅱの意味では主観的である」と考える立場があってもよさそうではないか。まあ、左派の方々はそう言う立場に不寛容なのでしょうけど。

2. 社会学的な「客観性」とは

[6]社会学的な客観性は、それ自体が主観を内在する構造となっている。
近代社会が区の始祖といわれるマックスウェーバ氏の『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(岩波書店)という論文(以降「客観性論文」と呼ぶ)の29段落目(73ページ)に、次のように書かれている。

文化生活ないしは(中略)「社会現象」の分析であって、特定の「一面的」観点をぬきにした、端的に「客観的な」科学的分析といったものは、およそありえない。社会現象は、(中略)一面的観点にしたがって初めて、研究対象として選び出され、分析され、組織だって叙述される。

つまり、「明白で本質的な唯一の客観性」というのは、社会科学においては存在しないということだ。というのも、そもそも「何を」「どうやって」研究対象にするかを選ぶ時点で、(恣意的とまではいわないものの、)偏りがどうしても生じてしまうからだ。
では「明白ではなく、本質的でもなく、唯一でもない客観性」とはどういったものであろうか。これについて、66段落目(157~158ページ)には次のように書かれている。

われわれは、科学と信仰とを分ける、(中略)認識努力の意味を(中略)、ひたすら追求してきたわけであるが、(中略)
あらゆる経験的知識の客観的妥当性は、(中略)、ある特定の意味で主観的な、(中略)、経験的知識のみがわれわれに与えることのできる真理の価値[への信仰]と結びついた諸範疇[カテゴリー]に準拠して、秩序づけられるということ、また、もっぱらこのことのみを、基礎としている。

ここでは、「(社会)科学とイデオロギーの違いは、『物事をどう気が付くか(認識するか)』という点にある」ということを述べている。科学者は何かに気が付いたとき、「それが客観的に妥当であるか」を重要視するが、宗教ではそうではないということである。
そしてその社会科学的客観性は、「ある意味主観的な発見が、『経験によってのみ得られる真理の価値』を信じるイデオロギーに基づいて秩序付けられる」ということを前提としている。
面白いのが、「科学とイデオロギーの違いであるはずの『客観性』が、イデオロギーによって支えられている」という点である。この矛盾を解消する方法としてすぐに思いつくのが、「科学 is-a イデオロギー」とみなすことだ。
科学を一種のイデオロギーとみなしてしまえば、「経験によってのみ得られる真理(の価値)」を信じるイデオロギーとは、経験科学そのものであるといえるのだ。こう考えると、社会科学的客観性の基礎とは、経験科学としての妥当性、正当性に他ならないということが分かる。

[7]社会科学的客観性、つまり経験科学としての妥当性の正体は、合理論、経験論、批判哲学3者の関係を整理することで見えてくる。
これらについては次の動画が大変参考になる。

合理論や経験論は、「『端的に客観的な』認識とは、『我々が絶対に観測できない本質的な何か』を認識したときに可能になる」という大前提では一致していた。揉めたのは、「観測できないものを認識できるかどうか」という小前提である。後から生まれた批判哲学は、ここで大前提を否定したのだ。つまり、「本質的な何か」というのは、認識できないものなのでないかと考えた。ここで「認識できない」とする理由は「観測できないから」(経験論)ではなく、「『本質的な何か』自身の性質だから」である。
この考え方は、「真理」という言葉の意味を塗り替えた。
批判哲学以前、真理とは「物と知性の一致」であるとされてきた。要は、理屈通りに世の中が動いていれば、それが真理なのだ。
例えば斜めに投げたボールが放物線を描けば、ボールの動きという「物」がニュートン力学という「知性」と一致したということで、真理なのである。
しかし、現代科学では「ニュートン力学(における運動方程式)は、あくまでも(光速と比べてはるかに遅い速度での)近似式に過ぎない」ということが分かっている。先ほど投げたボールが、ずっと下に落ち続け、光の速度に近づいてきたとき、ニュートン力学と観測とのギャップが大きくなり続けてしまう。ニュートン力学という知性は、物と厳密に一致するわけではなかったのだ。
そう。物と知性が厳密に一致することなど、(綻びが見つかるその日まで、綻びが無ければ永遠に)我々には知りようが無いのである。だからこそ、批判哲学では、「本質的な何か」を認識することはできないとするのである。
物の本質を認識できないからこそ、物を厳密に理解することもできない、というわけだ。
これにより、「真理とは物と知性の一致である」という言い方はこれ以上できなくなってしまった。そして変わりに、「真理とは、認識の整合性がとれていること」とされるようになった。
批判哲学以降の経験論は、「現代経験論」と呼ばれることがある。代表的なのが論理経験主義(「論理実証主義」という呼び方のほうが有名のようだが、同じものを指す)である。ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典で、「論理実証主義」を調べると次のように出てくる。

特に L.ウィトゲンシュタインの影響のもとに,ウィーン学団が展開した哲学の思想とその運動。認識の根拠は経験による検証であり,命題の意味とはその検証の方法にほかならない。したがって検証不可能な形而上学の命題は無意味であると主張。(後略)

「検証不可能な形而上学の命題」というのは合理論に見られる、神とか死とか正義とか愛とか超能力とか占いとか呪いとか心霊などの「経験可能(に思えるの)だが、認識不可能なもの」をテーマとしたような命題のことである。
批判哲学が真理の定義を「認識のつじつまが合うこと」のように塗り替えたことを思い出すと、「認識不可能なものに対する議論に意味はない」という考えが生まれるのは自然なことであろう。
カール・ヘンペル氏は、「経験論的かつ意味のある命題」とは何かを次のように定義した。(wikipedia「論理実証主義」より。孫引用元は野家啓一『クーン パラダイム』今村仁司 ほか編、講談社〈現代思想の冒険者たち 第24巻〉、1998年1月9日。ISBN 978-4-06-265924-6。)

ある命題が経験的意味をもつための必要十分条件は、その命題が分析的ではなく、かつ観察命題の無矛盾な有限集合から論理的に導出されることである。

「命題が分析的である」というのは、きっとカント(批判哲学を始めた人)の分析判断/総合判断の意味だろう。「科学はイデオロギーである」のように主語(科学)の概念が述語(イデオロギー)の概念に含まれているような命題を分析的、「科学は楽しい」のように主語(科学)の概念が述語(楽しい)の概念に含まれていないような命題を総合的と呼ぶ。分析的な命題の否定は、直ちに矛盾を引き起こすが総合的な命題の場合は矛盾は生じない。
つまり、引用文の「その命題が分析的ではなく」という条件は、「その命題が真であっても偽であっても論理的に問題がない」という条件を意味する。つまり、真とも偽とも演繹可能なため、合理論だけでは真偽を問えず、真偽を問うには(古くからの)経験論的手法が必要ということだ(※)。また引用文の後半はそのままの意味で、合理論的方法で演繹的にその命題を計算可能であるという条件であろう(答えは出せないが、質問はできる)。
つまり論理経験主義では、「合理論的方法によって問いとしては導出可能な命題であるが、その真偽を答えるには経験論的な方法に基づかなくてはいけないような命題」に価値を見出しているのだ。
※:批判哲学の始祖カントによれば、「経験的な判断 ならば 総合的命題」は成立するものの、 その逆(「総合的命題 ならば 経験的」)は成立しない。
総合的命題でありながら経験的でない命題は「アプリオリな総合的命題」と呼ばれる。カントにとってアプリオリとは、「経験に依存せず、論理的に経験よりも先に存在する条件」であり、強いて日本語にするなら「超越的」となるそうだ。但し、論理経験主義は「アプリオリな総合的命題」の存在を認めることに消極的なようである。

[8]論理経験主義は、男性差別のパラドクスに対して、女性に有利な解答をもたらしている。
論理経験主義はあくまでも「経験科学とは何か」という問いの代表的な解答例に過ぎない。経験科学を経験科学たらしめるものとしては他にも「反証可能性」などの科学哲学がある(んだそうだが、ネットで検索しても詳しくは見つからなかった)。
あくまでも一つの解答例として、経験科学としての妥当性や正当性を論理経験主義に求めるとき、「社会科学的客観性の基礎」は、
・「問いかけに論理の飛躍がないこと」
・「問いかけに答えるのに実験や調査が不可欠であること」
となるだろう。
逆に言えば、これらの条件を満たしさえする研究テーマで行われた社会現象の研究は、そのテーマに沿って経験、演繹されて結論が出される限り、「社会科学的に客観的」であると認めざるを得ないのだ。研究テーマの選び方の道筋が一度示されてしまえば、そのテーマがどんなにミサンドリズム(男性嫌悪)や白人嫌悪感情に傾倒・前提したものであったとしても、そのことを以て「社会科学的に主観的な研究だ」と主張することはできない
第1章で示した、「マスコミが女性差別ばかりを報道するのは男性差別に当たるか」という例でも、「女性差別を報道する理由」が一度論理的に導出されてしまえば「社会科学的に客観的」と認めざるを得ない。ここで、「男性差別を報道しない理由が導出されていないこと」を以て「主観的である」と指摘するための仕組みを、社会科学や経験科学は用意していないのである。

[9]だからといって、男性差別のパラドクスから男性を救うための道筋が完全に断たれたわけではない。
というのも、男性差別のパラドクスや、それを生む社会科学そのものを社会問題として捉え、「メタ社会科学」的に分析すればよいからである。
しかし、この「メタ社会科学」を社会科学と直ちに同一視することは残念ながらできない。というのも、論理実証主義では、命題が経験的意味を持つ条件として「観察命題の無矛盾な有限集合から論理的に導出される」ことを要請しているからだ。
観察命題(=プロトコル命題)とは、その科学における基礎となる命題のことで、「意味が分かれば直ちに真とわかるもの」といってよい。
メタ社会科学では、「社会科学における研究活動や、その成果」を研究対象とするわけだが、そういった立場は社会科学の「観察命題の無矛盾な有限集合」から演繹することが出来るだろうか。残念ながら「『自分自身』を元に含む集合」は、無矛盾ではありえないということが数学的に分かっている。この問題は第3章で議論する通り、「単純型理論」によって解決されるが、このことは「メタ社会科学的な客観性」にも単純型理論に対応する何かが必要であることを暗示しているとは言えないだろうか。

[10]ここで注意が必要なのは、「メタ社会科学」を「社会科学」の一派とみなすことは認めてもらえなさそうである、ということだ。
というのも、客観性論文の23段落目(63~4ページ)には次のように述べられているからである。

(前略)一面性こそ、目指すところなのである。(中略)「一面性」から救い出すことが、進歩していく科学研究の任務である、という信仰は、(中略)
「社会的なもの」(中略)という観点は、(中略)述語を与えられたばあいにのみ、科学的問題を区分するに足る(中略)
という誤謬である。(中略)
社会経済学が「社会的」諸関係を取り上げているということは、社会経済学を「一般的社会科学」の(中略)先駆形態と考える理由にはならない。その事情は、あたかも(中略)、社会経済学が一天体上の事象を取り上げるからといって、それを、(中略)天文学の一部と見なすにはおよばない、というのと同様である。
(中略)新しい問題が、新しい方法をもって探求され、(中略)真理が発見される(中略)ばあいにこそ、新しい「科学」が成立するのである。―

ここで言っているのは、「社会科学の一面性は、『どうしても取り除けない厄介な問題』ではなくて、むしろ『良いもの』なのである」ということである。そう。「男性差別のパラドクスは良いもの」なのである。
『「社会的なもの」という観点は、述語を与えられたばあいにのみ、科学的問題を区分するに足る』という考え方を誤解だと言い張っているが、ここでいう述語というのは「述語論理」における述語、つまり関係や性質などを表す基本概念であって、文法用語でいえばむしろ修飾語などに近いものである。要は「『社会』とはもともと一つの概念であって、人々がジャンル分けしようとして初めてジャンル分けされるのである」という考えを誤解としている。「社会をジャンル分けしたり、一面的に取り出したりすることを悪とするならば、地球という一つの惑星上の現象を扱っているんだから、『社会科学は天文学である』とすることが善しとされてしまう。」と、論文は主張するのだ。

3. メタへのアプローチ―ラッセルのパラドクスと単純型理論

[11]第2章では、社会科学的な客観性には、それ自体に主観が内在し、そのために男性差別のパラドクスに対して女性贔屓(ひいき)ともいえるような解答を導いてしまうということを解き明かし、さらにこの主観から男性を救うには「『自分自身』を元に含む集合」つまり「集合についての集合」を議論するための理論が必要であると思われることを示した。

[12]「AについてのA」(A about A)のことを、「メタA」という言い方をすることがある。例えばメタ認知とは「認知についての認知」であるし、メタ言語とは「言語についての言語」(言語を定義するための言語)である。
ゲーテルの不完全性定理は、「ある理論の筋が通っていること(無矛盾である事)を、その理論自身で証明可能であるか」について論じたものであるが、これはまさに「理論についての理論」であって、メタ理論である。

[13]「集合」に対しても、メタ集合を考えることが出来る。
数学ではメタ集合、つまり「集合を元とする集合」を集合族というのであるが、これは、「集合でないオブジェクトを元とする集合」(単なる集合)とは異なるものとされている。つまり集合族は単なる集合とは異なるものであると考えるのが一般的である。

[14]集合族(メタ集合)が単なる集合とは別物であるというのは、「ラッセルのパラドクス」を使って背理的に証明可能である。
ラッセルのパラドクスとは次のようなものだ。

ここに、自分自身を元として持たないようなすべての集合を集めたメタ集合Aを考えよう。・・・(仮定)
Aは、自分自身を元として持つだろうか?・・・(疑問)
もしAが自分自身を元として持つ(A∈A)のだとしたら、仮定よりAは「自分自身を元として持たないような集合を集めたメタ集合」Aの元である資格がない(A∉A)。
しかし、Aが自分自身を元として持たない(A∉A)とすると、仮定よりAは「自分自身を元として持たないような集合を集めたメタ集合」Aの元である(A∈A)必要がある。
故に、A∉AなのかA∈Aなのかを定めることが出来ない。つまり疑問に答えることが出来ない。

この矛盾は、「メタ集合」が集合と同じ性質(この性質には「型」という名前があります)のものだと仮定したことに起因する。ここで
「集合とは、集合でない元を集めたものである」
「メタ集合とは、メタくない集合を元として集めたものである」
と定めてしまえば、
「集合とメタ集合は違う型(性質)をもつものである」といえるようになる。なぜなら、集合はメタ集合の元になれるが、メタ集合はメタ集合の元になれないからだ。
「メタ集合Aは自分自身Aを元として持つか」
などという疑問も、そもそも無効になる。なぜならばメタ集合はメタくない集合を元として集めたものであって、メタ集合を元として集めたものではないからだ。

[15]さて、このメタ集合をどう捉えるかがZFC集合論と単純型理論の分かれ道だ。ZFC集合論ではメタ集合を「真のクラス」、集合を「小さなクラス」と呼び分けている。また集合とメタ集合をひとくくりにしたものを「クラス」と呼んでいる。つまりメタメタ...メタ集合のようなものは(積極的には)考え無いようだ。メタメタ...メタ集合を考えるのは、単純型理論の仕事だ。

[16]単純型理論では、型に0や自然数(のようなもの)を割り当て(、クラスは型によって分類されるとす)ることで、積極的に「メタメタ...メタ集合」を考えていく。
クラスでないオブジェクトの型には0を割り当て、
単なる集合(小さなクラス)の型には1を割り当て、
メタ集合の型には2を割り当て、
メタメタ集合の型には3を割り当て、
...
メタ×(i-1)集合の型にはiを割り当てる。
そして、型iのオブジェクトは、型i-1のオブジェクトのみを元として持つことが出来るというのだ。

[17]以上より、男性差別のパラドクスを男性に不利にならないよう解決すべく「経験科学についてのメタ経験科学」を考えるにあたっては、2章で取り上げた「(経験論的に)意味のある命題」は、次のように拡張する必要がある。

ある命題が(経験的)意味をもつための必要十分条件は、その命題が分析的ではなく、かつ観察命題の無矛盾な有限数の型を持つ有限集合から論理的に導出されることである。

このような「メタ経験科学」に経験科学としての意味を認めてよいかについては、判断を避けようと思う。但し、論理経験主義が「経験論的に意味のある命題」を定義しようとした背景には「検証不可能な形而上学の命題」を追放したいという事情があったことを考えて欲しい。経験科学そのものの現状を経験する科学における検証可能性については第6章で議論するし、また自分自身を証拠と論理に基づいて見つめなおそうとする姿勢が形而上学的問題であるとも考え難い。

4. 高階述語論理と単純型理論の融合

[18]数理論理学は集合論と密接にかかわっているが、それは(述語論理的)命題p(x)⇒q(x)を集合の含有関係{x|p(x)}⊂{x|q(x)}に対応させることが出来るためである。
例えばp(x)は「x>3」、q(x)は「x>2」であるとしよう。
ある数xが3より大きければ(命題pが真)、そのxは絶対に2より大きい(命題qも真)。
今、2つの集合P={x|p(x)}, Q={x|q(x)}を考えよう。
つまり、P={x|x>3}, Q={x|x>2}である。
このとき、Pの元は、必ずQの元でもあるはずだ。
このことは、集合論ではP⊂Qと書かれる。
また、ちょっと変えてp(x)を「x君は3年生より上級生である」、q(x)を「x君は2年生より上級生である」としてみよう。
命題論理では「3年生より上級生なら、2年生よりも上級生に決まっている」と主張するが、集合論では「『3年生より上の学年の生徒をすべて集めた集合』は、『2年生より上の学年の生徒をすべて集めた集合』の一部分である」という言い方をする。言葉にすると集合論の考え方のほうが回りくどくてややこしいが、図を描いて考える場合は集合論の考え方が論理学でも必要になる。

[19]すなわち、述語論理p(x,y,...)から見た集合{(x,y,...)|p(x,y,...)}とは、述語が真を返すべき入力を集めたものであるといえる(これを「カンニング集合」とでも呼ぼう)。述語論理における述語の意味を知らない方向けに補足すると、述語というのは真偽値を返却する関数のことである。入力引数間の関係を表すことなどに使われる。
例えば、father(人, 人)という述語があるとしよう。
この述語は第1引数が第2引数の父親であるときに必ず、またその時に限って真を返す。
例えばfather(波平, カツオ)は真であるがfather(波平, スネ夫)は偽である。
father(人, 人)のカンニング集合をFather := {(人,人)|father(人, 人)}とすると、
(波平, カツオ)∈Fatherであって、(波平, スネ夫)∉Fatherなのだ。

[20]逆にカンニング集合を用いて述語を説明することが出来る。

[21]述語とは、「個体の順序対(x,y,...)の全体集合{(x,y,...)|True}に対する部分集合{(x,y,...)|f(x,y,...)}をカンニング集合として、カンニング集合の元が入力されたときに必ず真を、全体集合の元であるがカンニング集合の元でないものが入力されたときに必ず偽を返す関数f(x,y,...)」であるといえる。

[22]さて、以上で述語と集合が結びついたわけだが、ここで集合に単純型理論を当てはめてみると、それは高階述語論理に対応する。
まずn階述語論理とは、「n階未満の述語」に対して量化記号を適応できるような述語論理のことをいう。
これを検証するために、まずは単なる述語論理である「1階述語論理」を考えてみよう。1階述語論理では、個体の量化のみが許される。
量化というのは、「全ての~」とか「ある~が存在する」とかを表す表現のことである。例えば、どんな実数xに対しても「x+x=2x」が成り立つが、このことは「∀x∈ℝ(x+x=2x)」のように書ける。
また、「x+1=6」を満たすような実数xは必ず存在するので、このことは
「∃x∈ℝ(x+1=6)」のように書ける。
この「∀」とか「∃」を量化記号といい、以上の2例では「量化記号はxを量化している」ということができる。
前述の通り1階述語論理では個体以外を量化することが出来ない。
従って、「p(x)⇒q(x)」という論理に対して、「∀x (p(x)⇒q(x))」ということはできても、「∃p∀q∀x(p(x)⇒q(x))」ということを表現することは許されない。なぜならばこの例は、個体でなくて述語であるpやqを量化してしまっているからだ。「∃p∀q∀x(p(x)⇒q(x))」のように述語の量化を許す論理体系は、2階述語論理と呼ばれる。
1階述語論理では、個体を量化可能。
2階述語論理では、個体及び述語を量化可能。
2階述語論理は、1階述語論理の拡張であるため、2階述語論理は1階述語論理を内包していると言える。
今、2階述語論理に存在して1階述語論理に存在しないすべての計算規則を「差分2階述語論理」と呼ぼう。こうすると、「2階述語論理とは、1階述語論理と差分2階述語論理を合わせたものである」といえる。 
差分2階述語論理では、個体を量化出来ず述語のみを量化可能である。
すなわち、「個体の代わりに述語を量化可能」なのであり、
さらに言えば、「差分2階述語論理とは、1階述語論理の述語を個体に読み替えたときの、別の1階述語論理である」ということが可能なのだ。
差分2階述語論理における述語とは、1階述語論理からすれば「述語を個体と見たときの述語」、「述語についての述語」、すなわち「メタ述語」であるといえる。
ここまでずっと気難しく解説してきたが、2階述語論理とは結局、「個体と述語の他にメタ述語も考えることにした述語論理」に過ぎない。
同様に考えれば、3階述語論理は「個体と述語とメタ述語とメタメタ述語を考える述語論理」であるし、n階述語論理は「個体と述語とメタ述語とメタメタ述語と...メタ×(n-1)述語を扱う述語論理」であるといえる。
n階述語論理を理解したところで、「述語にはカンニング集合と呼ばれる個体の集合が対応している」という事実を思い出そう。では、述語についての述語であるメタ述語についてはどうだろうか。
メタ述語にとって、個体とは(メタくない)述語であった。したがってメタ述語にとってのカンニング集合は「メタくない述語の集合」...アである。
メタくない述語には、メタくないカンニング集合が1対1で対応しているのだから、アは別に「カンニング集合についての集合」つまり「メタカンニング集合」としても良さそうである。
ほら、単純型理論との繋がりが見えた。メタ述語(差分2階述語論理における述語)には、型2のカンニング集合が対応する。
同様に、メタ×(n-1)述語(差分n階述語論理における述語)には、型nのカンニング集合が対応する

5. 高階客観性理論―客観性と単純型理論の融合

[23]社会科学的な客観性とは、「一面的観点」に従って研究テーマや研究手法などが選び出されることを前提としていて、ここには主観がどうしても入り込んでしまうのであった。混入する主観を放っておけば、口のうまい宣教師が、ある特定の宗教に有利な観点に従った研究を多数発表することで、社会科学に関わる者たちに、あたかもその宗教が『正しい』ものであるかのような印象を与えてしまう、といったことも起こり得る。

[24]この混入する主観を悪用できないよう、客観性論文では、研究者に対して2つの義務を課した。(12~3段落目, 46~8ページ)

もとより、(中略)かれらを鼓舞している理想を価値判断として表明することをも、今後一切禁止するというわけにはいかない。ただ、そこからは、ふたつの重要な義務が生ずる。

「2つの義務」のうち、一つ目は次の通り。

まず、
[1]これはあまりにもしばしば見受けられるところであるが、(中略)、理想間の抗争に目をつぶり、「誰にたいしても、なにかを提供したい」と欲したりする代わりに、(中略)、価値判断を導き出す[ところの、究極最高の価値]基準が、いかなるものであるかを、(中略)鋭く意識させるように努める、という義務である。

男性差別のパラドクスで言えば、「女性にも男性にも公平な何か」を探すのではなく、どんな価値観に基づいて議論するかを決め、堂々と公表したうえで、男女どちらかを贔屓せよといっているのである。
「価値観を堂々と公開する」義務を設ける理由は、次のように述べられている。


この義務が厳格に守られさえすれば、実践的に態度を決め判断を下すことは、純然たる科学のためにも、(中略)無害であるだけでなく、直接に有用でも(中略)ある。というのも、立法その他の実践的提案を科学的に批判する際、立法者の動機や(中略)理想を、(中略)解明するには、彼らの根底にある価値基準を他の価値基準と対決させ(中略)ることによって初めて、判然と理解できる形式にまでもたらされることが、きわめて多いからである。
他人の意欲にたいする意味のある価値評価は、(中略)自分自身の理想を基盤とする他人の理想との闘いであるほかはない。それゆえ、(中略)意欲の根底にある究極の価値公理を(中略)他の価値公理との関係において判然と理解しようとすれば、まさしく、他の価値公理との関連を叙述することによる「積極的」批判が、避けられないのである。

A氏による社会的な行動(実践)の背後にはA氏の価値観が存在するが、A氏の実践を評価しようとするB氏の研究は、結局A氏の価値観とB氏の価値観を戦わせることにならざるを得ない。
しかし、客観性論文論文では、「価値観の闘争など、科学ではない」とも述べている。価値観の闘争の必要性と非科学性の折り合いをつけるために、次のように述べられている。

そういうわけで、この雑誌の欄では(中略)―理想の提示―にも、発言を許すことが避けられない。しかし、そのばあい、われわれは、その種の[理想の提示を含む]論究を「科学」であると主張しようとは思わないし、両者を混同したり、取り違えたり(中略)そういうばあいに語っているのはもはや科学ではない。それゆえ、科学的普遍性の要請にもとづく第二の基本的命令は、
[2]そういうばあい、思考する研究者が語ることを止めて、意欲する人間が語り始めていること、およびその個所を、(中略)明らかにする、ということである。事実の科学的論究と価値評価をともなう論断をたえず混同することは、我々の専門的研究にいまなお広汎にいきわたり、しかももっとも有害な特性のひとつである。

つまり、「価値観」を述べている部分と、経験科学的に述べている部分をしっかりと区別せよといっているのである。
この区別が付けられていない負の典型例としては、マスコミが挙げられる。
テレビは、社会学者に「真面目な」コメントを求める際には、
テロップなどで「※これは個人の感想(を基準に置いた演繹)です」と
注意書きをしなければならない
だろう。それをしないのは、「専門的研究にいまなお広汎にいきわたり、しかももっとも有害な特性のひとつである」と言わざるを得ない。

[25]社会科学がこのようにして「主観の悪用を防いでいる」工夫は、述語論理で表現することが出来る
ここまでの議論から、社会科学は『自らの価値観の公表と、科学との区別』という2つの義務によって、主観の悪用を防ぎ、これを客観的と呼んでいるということになる。
今、述語論理に対して、
「客観(個体の順序対; 価値観)」
という述語を導入することを考える。
(述語論理における)述語とは「個体の順序対の集合」の何らかの部分集合(カンニング集合)に対応して真偽値を返す関数であったが、
客観という述語は、このカンニング集合を「客観的といえる個体の順序対を集めた集合」とする。引数の後ろに価値観をパラメータとして設けたのは、「2つの義務」の要請による「自らの価値観の公表」を実現するものである。このパラメータが「それ以上根拠のない理想(および観点、一面性)」でない限り、客観の述語は常に偽を返す。このパラメータが「それ以上根拠のない理想」であって、かつその理想に基づいて社会科学的研究が科学的に展開されているといえるとき必ず、またこの時に限って、客観という述語は真を返す。
そして、個体の順序対は、「社会科学的研究」を表現するもので、ひとつの個体は社会現象だったり、論理展開だったりする。「1または0」つまり1bitでも構わない。このようにすれば、社会科学を述語論理として考え、社会現象を個体、研究発表を個体の順序対、客観性を述語とみることが出来る。

[26]こうして社会科学を述語論理として捉えたとき、高階述語論理は「高階客観性」に対応し、男性差別のパラドクスの解決に一役買う。例えば2階述語論理では、「述語を個体と見なしたときのメタ述語」を考えるが、これは「客観を社会現象や社会問題と見なしたときのメタ客観」に対応するわけだ。マスコミが女性ひいきともみれるような報道ばかりすることを、「マスコミの客観を社会問題として捉え、メタ客観的に分析する」のである。このとき、マスコミの客観は型1の集合に対応し、マスコミの客観を問題視したメタ客観は型2の集合に対応する
今後、型nの集合に対応する種類の客観性を、「n階客観」と呼ぶことにする。

6. 高階客観的研究手法の提案

[27]n階客観的研究は、「n-1階客観の勢力差」を可視化する可能性を持っている。これは従来の(=1階)客観的研究が、ジェンダーギャップとか「早生まれと遅生まれの偏差値の差」とかの「属性(=0階客観)間の勢力差」を可視化してきたのと全く同じである。1階客観的には男尊女卑といわれがちの世の中であるが、2階客観的にはむしろ女尊男卑なのかもしれない。例えば、ジェンダー史学会の事務局はお茶の水女子大内部にある。これでは女性(や名誉女性)目線の主張しかできないのが明らかなので、いくら1階客観に努めようとも、2階主観的であるという事実は揺るがない。こういった男性差別のパラドクスを「客観的」手法で解き明かすことが出来るとすれば、自称男女平等論者は、「一面的根拠だけに基づいて、女性の方が男性よりも端的に不幸であると決めつけていた自分たちの根本こそ性差別的であった」と気づいて更生するか、「女性の幸福のためなら、男の不幸も止むを得ない」という女性至上主義的本心を白状するか、いずれかの2択を迫られることになるだろう。

[28]n階客観を幾何学的に捉えるとすれば、それは社会という高次元世界の物体を、その低次元な写真から復元する試みである。例えば1階客観的な研究が男尊女卑だとか女尊男卑だとかを述べるとき、それは、高次元の図形として表される「社会自体」から、賃金格差などなんらかの「視線ベクトル」(ウェーバ氏の言う「一面性」をベクトル表現にしたもの)を切り出し、そのベクトルに沿って低次元の図形を取り出した結果を論じているに過ぎないといえる。
直観的に言えば、1階客観的な研究は、円柱を「円である」といったり、あるいは「長方形である」といったりしているのである・・・※。
ここで、次のような仮説を置く。それは「価値公理(あるいは理想)と『(一面性における)一面』には強い相関関係がある」というものである。
某大学の入学式で、男子学生に向けてヘイトスピーチを行った女性の社会学者は、「私は嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある」「(つまりデータを出さないこともある?)もちろんです」といった発言をしたことがある。こうした(社会学的には正しいが、だからこそ道徳的には自分勝手な)態度が、「価値観によって、どんな一面を好んで取り出すかがある程度決まってしまう」という法則を成り立たせてしまうのではないかと考えるわけだ。
この仮説の下では、※は、厳密には「上空から見たとき円である」とか、「西から見たとき長方形である」のように言っているはずである。なぜなら、理想を述べることにより、どのような一面的観点からその研究を行ったかがある程度わかるため、これが「視線ベクトル」として役立つためである。
逆に、このベクトルと、得られた低次元図形の組を集めて、そこからより高次元な図形を推定できるとすれば面白い。
つまり、
「上空から撮影すると円、西から撮影すると長方形となるような被写体」を「円柱」と答えることが出来れば、同じように「社会学的な論文の集まり」から、「高次元の社会の構造」を推定することが出来るはずだ。
関数を使って数式のように表すとしたら次の通り。

(1.) 現象 = 認識(主観, 物自体)

     写真 = 撮影(視点やアングル, 被写体)
     論文 = 研究(価値観, 社会自体)
     
(2.) 客観的現象 = (主観, 現象)

     撮影情報付き写真 = (視点やアングル, 写真)
     客観的な論文 = (価値観, 論文)    
     
(3.) 推定された物自体 = 推定(客観的現象1, 客観的現象2, 客観的現象3, ...)
     
     推定された被写体 = 推定(撮影情報付き写真1, 撮影情報付き写真2, 撮影情報付き写真3, ...)
     推定された社会自体 = 推定(客観的な論文1, 客観的な論文2, 客観的な論文3, ...)




この両者を抽象化してjavaコードで表すなら、次のようになるだろう。

class テストクラス
{
    public static 物自体型 推定(主観型[] みんなの主観, 物自体型 物自体, 客観的現象[] みんなの客観的現象)
    {
        for(int i=0; i<みんなの主観.length; i++)
        {
            主観型 主観 = みんなの主観[i];
            
            現象型 現象 = 主観.認識(物自体); 
            //物自体と現象の区別 
            
            みんなの客観的現象[i] = new 客観的現象(主観, 現象); 
            //主観に拠る現象の経験を取り入れて演繹することで初めて客観的となる
        }

        var 推定器 = new 推定器型();
        物自体型 推定された物自体 = 推定器.推定(みんなの客観的現象);
    }
}

写真撮影の例は、次のように実行する。

int サンプルサイズ = 100;
視点やアングル型 みんなの視点やアングル[] = new 視点やアングル型[サンプルサイズ];
//視点やアングル is-a 主観

byte bytes[] = new byte[視点やアングルのデータのバイト数];

for(int i=0; i<みんなの視点やアングル.length; i++)
{
    for(int j=0; j<bytes.length; j++)
        bytes[j] = Random.nextInt(255)-128;
    みんなの視点やアングル[i].バイト列を用いて初期化(bytes);
}       

被写体型 被写体 = new 被写体型("円柱");
//被写体 is-a 物自体

撮影情報付き写真型 撮影情報付き写真集[] = new 撮影情報付き写真型[サンプルサイズ];
//撮影情報付き写真 is-a 客観的現象

被写体型 推定された被写体 = (被写体型)テストクラス.推定(みんなの視点やアングル, 被写体, 撮影情報付き写真集);


(以下、書きかけ。。。)


javaっぽく書いてみると次のようになるだろう。

class けん究
{
    private ろん文 論文;
    private か値基準 価値観;
    private えん繹 科学的議論;
    
    public けん究(String 論文の文字列)
    {
        this.論文 = new ろん文パーサ(論文の文字列);
        this.価値観 = this.論文.価値観;
        this.科学的議論 = this.論文.科学的議論;
    }
    
    public boolean is客観的である()
    {
        if(this.)
    }
}


//型名はその1文字目を平仮名または大文字とする
class ろん文
{
    private めい題 命題;
    public ろん文(個体[] 社会現象や論理の配列){}
}


class けん究
{
    //『自らの価値観の公表と、科学との区別』
    
    private ひと 研究者; //けん究 has-a ひと
    private か値基準 価値観;
    private えん繹 科学的議論;
    private boolean is価値観が公表されている;
    private boolean is価値観と科学的議論が明確に区別されている;
    
    public けん突(ひと 研究者, ろん文 論文)
    {
        this.研究者 = 研究者;
        this.価値観 = 研究者.価値観;
        this.科学的議論 = 論文.命題.dump();
        this.is価値観が公表されている = 論文.命題.プロトコル命題.equals(研究者の価値観);
        this.is価値観と科学的議論が明確に区別されている = isわかりやすい(論文.命題.dump());
    }
    
    public boolean is客観的(しゃ会現象[] 個体の順序対)
    {
        か値
    }
}

class ひと
{
    private か値基準 価値観; //ひと has-a か値基準

    boolean 客観(しゃ会現象[] 個体の順序対)
    {
        か値基準 価値観 = this.価値観;
        けん究 研究 = new けん究(個体の順序対);
        return 研究.is_演繹可能_from(価値観);    
    }
}



参考

http://www.shayashi.jp/courses/2016/moku2kouki/20170112.html
https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9



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